ラブライブ!を巡るカオス的時間・空間

ラブライブ!では「時間」が印象的なテーマの1つとして扱われている様に感じます。時間は誰にでも、何事においても本来的に付き纏うものではありますが、高校生の間しか活動できないスクールアイドルは時間的制約の強さを実感させ、その限られた時間の中でどの様に過ごすべきなのかという問いをより大きなものとさせているのではないかと思っています。

今回の内容は「ラブライブ!における時間・空間」です。時間をどう捉えるのかという問いは、ある種哲学的な問いの様に感じられる一方で、科学的な側面も大きく持っています。科学史においても時間という概念は時代と共に変遷し、それに伴ってまた新しい疑問を生み出してきました。

また、時間概念は「この時間の中でどの様に輝けばよいのか」という疑問にも繋がります。これはラブライブ!作品における中核ともなるテーマでありますが、その根底の1つには時間の捉え方があるでしょう。

では、以上のテーマを科学的側面と哲学的側面の双方を交えながら考えていこうと思います。

 

 

科学的な”時間”の変遷

なんてあっという間に過ぎてゆくのだろう
立ち止まることもできない季節は
今日も(去って)今日が(去って)前を向くしかない
決して戻れないね

Saint Aqours Snow 「Over The Next Rainbow」より

「時間は戻らない」「時間には絶対性がある」

この当たり前の様な考えは「古典力学的な時間」であると言えます。ニュートンの運動の法則に基づいて発展した古典力学は、多くの物理現象を理論的に説明し、科学の発展をもたらしました。

しかし、時代が進み古典力学では説明できない現象が発見されるようになりました。そこで登場したのが「相対性理論」です。相対性理論は「時空間は観測者によって異なる相対的なものである」可能性を示しました。時空間が相対的なものであるという事は些細な様に見えて、とても大きな帰結をもたらします。なぜなら、時間が絶対的なものではない、見方によって変わるものであるという事は「時を巻き戻せる」可能性を示唆しているからです。

更に時代が進むとワームホール理論が提唱され、ワームホールが物理的には存在可能である事が示され、「未来や過去へのタイムトラベル」の可能性が示唆されるようになりました。

時間概念の変化に伴うパラダイムシフト

時間が絶対的なものであった時・・・私達はどの様に考え、行動するでしょうか。

「今を後悔しないように生きる」「これから起こる未来に期待する」

この類の回答がメジャーなものではないかと思います。「昔の自分に希望を託す」という人はまずいないでしょう。

この事について昔の人がどう考えていたかは、宗教について考えてみると分かりやすいと思います。私の知る限りでは、今や未来に希望を持たせる宗教は存在しても、過去に光を見出した宗教は無かったのではないかと思います。だからこそ、ある宗教は”今”に感謝するために一日に何度もお祈りを重ね、またある宗教では死後の国や輪廻転生という未来に楽しみを見出していたのだと考えられます。

では時間が相対的なものであったら?これは現代に数多あるSF作品に表れていると思います。

「あの時こうしていたら」「もしあの日に戻ってやり直せたら」

誰しもが一度は思った事があると思います。現代のSF作品では時間の相対性(タイムトラベル)をテーマにしているものが多く見受けられます。勿論、その中では時間に相対性があるからこそ生じる悩みも描かれており、それ自体が「どの様に輝けば良いか」という疑問にも繋がるので後述します。

少し話が逸れますが、日本最古のSF作品をご存知でしょうか。1800年代か1900年代の作品なのでは、と思いきや、実は”竹取物語”が最古のSF作品です。月から宇宙人がやってくるという作品で、”時間”はテーマとして意識されていません。同様に昔の作品では”時間”がテーマとして扱われた事はなかったのか、と思いきや、なんと驚き(?)昔の作品でも”時間”それも「時間の相対性」をテーマとしたSF作品があります。皆さんご存知「浦島太郎」ですね。勿論、浦島太郎の作者が相対性理論やらワームホールやらと考えて作ったとは思いませんが、日本の昔の作品でも既に時間の相対性が描かれている事には少し面白さを感じます。

ラブライブ!における時間

では、ラブライブ!においてはどの様な時間が表現されているでしょうか。ラブライブ!で表出されている青春は終わりのある時間を表現しており、時間を絶対性を持つものであると捉えていると言えます。だからこそ、ラブライブ!では今どう輝くか、未来の僕たちがどうしているのかというテーマが見受けられています。

しかし、時間表現がそれだけしかないかというと、そうでもありません。ラブライブ!では幼少期の姿が現在に何か繋がりを持つかの様に表現されています。劇場版ラブライブ!The School Idol Movieでは幼少期に水溜まりを跳ぶ穂乃果が描かれ、更に女性シンガーと出会ってから非現実的なお花畑でまた水溜まりを跳ぶ事になります。ラブライブ!サンシャイン‼ではアニメシリーズを通して各キャラの幼少期が描かれ、更に千歌においては”紙飛行機”という、見ている者に想像を膨らませる幼少期のエピソードが登場します。劇場版ラブライブ!サンシャイン‼においてもそれは引き継がれ、幼少期のAqoursが集う非現実的な空間まで表現されています。

この「もしも」を内包している相対的な時空間は、運命とは何かを私達に考えさせます。次のテーマとして、数学的カオスに基づく運命論を考えてみましょう。

運命・必然

偶然と運命。それはラブライブ!サンシャイン‼2期5話「犬を拾う。」でもテーマとなっており、多くの人がそれに対して思いを巡らせたものだと思います。

「運命」という言葉はラブライブ!作中でも「見えない力」と表現されていた様に、科学とは無縁でどこかスピリチュアルな言葉の様に感じます。しかし「運命」を「必然」と言い換えたら?どちらもdestinyですが、前者は東條希さんが発した言葉の様に感じられる一方で、後者はラボラトリーで白衣を着ている人が言っていてもおかしくない様に思います。この偶然と運命についての考え方は科学の発展に伴い変化したものの1つであると言えるでしょう。

 現代科学発展以前では”運命”は神様の贈り物である事はあっても、科学現象の帰結だと捉えられる事はあまりありませんでした。古文においても”因縁”を意味する「契り」という言葉が多用されているように、「運命」=「非科学的に決定力を持つ力」と考えられていた事でしょう。

科学が発展し、様々な現象が科学の範疇で説明できる様になると、destinyの持つ意味に変化が生じました。神の怒りだと考えられていた日食は周期的な天体運動として発生日時を正確に予測できるようになり、昔は生贄を捧げた雨乞いも今では何日後に雨が降るのかが分かるようになりました。「運命」が「必然」に変わったと言っても過言ではないでしょう。

量子・粒子のレベルまで科学が発展し、この細部のレベルまで科学法則が見出されると、更に極端な運命論も考える事ができます。「素粒子のレベルまで科学法則に従っているのであれば、実は自分の人生は既定されているのではないか?ある瞬間に自分が何をしているのかは既に科学的に決まっていて、変わる事はないのではないか?」自分の力では未来は変わらない、この考え方はどこか世界を空虚的に見た考え方であるとも言えるでしょう。運命とは何か、これは先述した「どの様に輝けば良いか」という疑問以前に、「そもそもその輝きに意味はあるのか」という更に根源的な問いにも繋がります。

水溜まりと紙飛行機

私はラブライブ!を通して気になっている事がありました。

① ”もしも”穂乃果が幼少期に水溜まりを跳び超える事ができなかったらμ'sはどうなっていたのだろうか?

② ”もしも”千歌が幼少期に紙飛行機の事を諦めなかったらAqoursはどうなっていたのだろうか?

μ'sは存在したのだろうか?Aqoursは存在したのだろうか?些細な事の様に思われるかもしれませんが、そうとも言い切れません。これは「バタフライ効果」と呼ばれる思考実験です。

「小さな蝶の羽ばたきが地球の裏側で大きな竜巻を起こした」と言って信じられるでしょうか。俄かには信じ難いこの一文は”可能性の上では”有り得る現象です。それ程までに、重大な帰結というものは先行する些細なイベントによる影響を受けるのです。

このバタフライ効果という考え方はカオス理論・カオス力学といった数学・物理分野の思考実験によるものです。先述の通り、近年ではタイムトラベルを題材とした作品も多くあり、そこで”パラレルワールド”と共にしばしばテーマとなる考え方なので、ご存知の方も少なくないでしょう。ラブライブ!においても、幼少期の印象的なエピソードが描かれているという意味で、カオス理論とは切り離せない位置にあると思っていましたが、いよいよ最近カオス理論を意識しているのではないかと思われる歌が発表されました。

パラレル いまの僕らでよかった 他の選択肢だったら
ここで一緒に 笑い合えなかったかも
パラレル もしも の答えは 波がさらって行っちゃったよ
いつかまた会えること 潮風が知ってる

Aqours 「Marine Border Parasol」より

別の選択肢を選んだ、仮想的な別の世界では今のように笑い合えなかったかもしれない。そんな”もしも”の話。もし千歌が紙飛行機を遠くまで飛ばせる事ができていれば、廃校する事はなくてもAqoursの輝きは見つからなかったかもしれない。もし梨子がピアノで行き詰まる事がなければ、梨子は世界でも一流のピアニストになっていたかもしれないが、もしかしたらAqoursは存在しなかったかもしれない。もし一年生の時に鞠莉が怪我をしなければ、果南はスクールアイドルを辞める事に積極的にならなかったかもしれないし、3年生組の3人でAqoursの話は完結していたかもしれない。

そんな枚挙に暇が無いような”もしも”の話。そんな些細な”もしも”によって違ったかもしれない今。一見トリビアルなイベントの様に見えるかもしれませんが、「未来に対する決定力を有し得る」という意味ではどれも”運命”の一種なのかもしれません。

時間の相対性の話の中で、「あの時こうしていたら」と誰もが思った事があると述べました。しかし、実際に”こうしていたら”によって未来が好転する保証はどこにもないのです。人間誰しも後悔を抱かずには生きられないものですが、その”もしも”に対してどの様なattitudeでいればよいのかはラブライブ!を通して考えさせられる命題です。

偶然

運命と対になる概念として偶然があります。身近な例としては、ラブライブ!スクールアイドルフェスティバルの特待生勧誘が挙げられます。

社員引き、一度の11連勧誘でUR部員を4、5人、もしくはそれ以上獲得してしまう。そんな現象がTwitterを見ていると時々見受けられます。さて、これは徳を積んだ結果による運命の力なのでしょうか。それとも偶然なのでしょうか。

どちらも可能性としては否定できませんが、本記事で言うところの「必然」であると考えるのが納得しやすいのではないかと思います。11連勧誘でURを4人以上獲得する確率はSR以上確定枠を除くと約100万分の3です。5人以上獲得する確率でも約1億分の4もあります。一見起こる事があり得ないような小さな確率のように見えますが、全世界でラブライブ!スクールアイドルフェスティバルのダウンロード数が4500万を超えている事を踏まえるといかがでしょうか。100万分の3や1億分の4という確率がそもそもアプリのダウンロード数にさえ至らない高確率である事に気付きます。

一個人にとっては偶然としか考えられないような奇跡的な出来事でも、大局的に見ると、むしろ起こらない方が珍しい必然の出来事である事が分かります。同様の議論が「偶然と運命」がテーマとなっているラブライブ!サンシャイン‼2期5話「犬を拾う。」でも適応できます。このアニメ作中では①雨風で傘が飛ばされる②飛ばされた傘がブロックに引っかかる③引っかかったブロックに犬がいた、この3つのイベントが重なったに過ぎません。統計的データや数学的根拠こそありませんが、傘が飛ばされる事は珍しい事ではないでしょうし、犬が道中のブロックで雨宿りしている事も普通にある事です。この様に考えると、犬との出会いは善子にとっては奇跡的としか思えないような出来事ではあっても、大局的に見ると誰かしらが経験して当たり前の事象である事が類推できます。

この様に、一見自分にとっては偶然もしくは運命の様に感じられるような事であっても、実は起こるべくして起こったpseudo-chanceは意外とそして誰にでもあるものです。ではその様な事象には何の意味も無いのかというと、それはまた別問題でしょう。なぜなら、その偶然と必然の狭間にある出来事は小さな蝶の羽ばたきとして、未来に大きな変化をもたらすかもしれないからです。

Thank you, FRIENDS!!
会えてよかったな 会えてよかったな 最高の絆!
人生には時々 びっくりなプレゼントがあるみたいだ
ねえ会えてよかったな 会えてよかったな
これはなんの奇跡だろう?
消えないでって呟きながら もっと先へ飛び出すんだ

Aqours 「Thank you, FRIENDS!!」より

「出会いがわたしを変えたみたい」と小泉花陽さんも”なわとび”で歌っていました。たとえ実は必然の結果だったとしても、そのびっくりなプレゼントは確実に未来へ飛び出す糧となっている事でしょう。この捉えどころのない運命に対する考え方がラブライブ!においてどの様に表れているのか、というのは私が常々意識して見ていた視点でした。

科学の不完全性

ここまで”科学的視点”という観点で時間や運命というテーマを見てきました。”科学的”という言葉に対して、皆さんはどの様に感じるでしょうか。科学はしばしば、理路整然としていて真実を語っているかの様に思われているかもしれません。

しかし、実際には100%真実を語っていると言い切れる科学はほとんどありません。おそらく、その様に言い切れる科学は数学くらいでしょう。

これは、科学における理論の組み立て方に起因します。科学は”定義”や”公理”、”原理”を用いて定理を導く学問であると言えます。このうち”公理”と”原理”は「証明無しで真であると仮定された命題」です。例えば、先述の古典力学では”運動方程式”が原理の1つとして仮定されています。しかし、これは観察的に運動方程式が成立しそうだという事で前提条件とされたに過ぎず、実際に運動方程式が真である根拠は世界中のどこにも存在しません。

つまり、科学においては現時点でもっともらしい命題が採択されているに過ぎず、100%の真理を示している訳ではないのです。その意味では、これまで時間の絶対性・相対性や運命論についてお話ししましたが、どの考えが正しいのかは全く分からず、想像の余地が大いにあります。科学は正しい答えを探究しているようで、その実かなり脆い面もあります。

このような捉えどころのないテーマを考える上で、哲学的な考えは科学の脆弱性を越えて思考を巡らせる手段となると思います。そこで、今までの議論を踏まえた上で科学から離れて見た、ラブライブ!における「どの様に輝けば良いか」という問いの扱われ方を考えたいと思います。先述の通り、時間には今や未来を重視した絶対的時間概念と、過去の振り返りを内包する相対的時間概念の2つがあります。このぞれぞれについての考えを述べる前に、どちらにも繋がる1つの哲学的思想をご紹介したいと思います。

ラブライブ!ニヒリズム 

その思想とはニヒリズム虚無主義です。ニヒリズムとの関連性からラブライブ!、特にラブライブ!サンシャイン‼を見る事が出来るかもしれないという事です。

これは、私自身の気付きではなく、さくらいさん(@Fate_7)から学ばせていただいた内容となります。「Aqoursスカイハイ!とニーチェ」というタイトルでされたツイートキャスティングで纏められておりますので、まずはそちらを聞いていただけると幸いです。

twitcasting.tv

twitcasting.tv

 ツイートキャスティングの内容以上に私の方から述べるのは蛇足となりますので、代わりに私の感想とさくらいさんとの出会いについて語っておこうと思います。

このツイートキャスティングは「ラブライブログアワード2018」という魂さん(@tamashiill)主催のアワードでノミネートされていたものです。私もラブライブ!について纏められたブログを読むのが好きなので、ノミネートされた作品を覗かせていただいていたのですが、このさくらいさんの作品はその中でも特に私が感銘を受けたもので、アワードでも票を投じさせていただきました。

ラブライブ!サンシャイン‼とニヒリズムの思想の類似性、そして理論的な繋がりがとても分かりやすく説明されており、大変参考になりました。また、私がこの作品に説得力を感じたのは、公式で既に”哲学者”のイメージが語られていたからでもあります。

歌詞に何度も出てくる「イマ」は、”意識しない哲学者”というイメージで書いていました。第12話は、多分彼女たちの中で哲学的な想いが生まれたタイミングだと思ったんですね。

ラブライブ!サンシャイン‼TVアニメオフィシャルBOOK2 (70ページ)「WATER BLUE NEW WORLDに対する畑亜貴さんのコメント」より

そしてニヒリズムを通した目線は、本記事で取り上げた内容に回答するものでもあるのです。

永劫回帰する絶対的時間

現在と未来、それを重視した絶対的時間概念を本記事では1つの考えとしてご紹介しました。それを科学的に見た時、「究極的な科学的運命論」に行きつく事も、「運命・必然」の章で取り扱いました。

繰り返しになりますが、この”科学的運命論”は全てが規定された法則に従っているため未来の一時点も既に決まっているという考え方です。これを哲学的視点で見ると、ニーチェの言う”永劫回帰”と同じ考え方である事に気付きます。あらゆる現象が規則的・周期的で無価値である。だからこそ、無価値である事を前向きに捉え、自ら価値を見出し一瞬一瞬を生きるという能動的ニヒリズムは、科学的運命論に対する前向きなattitudeにもなっている事が分かります。

浦の星女学院の校訓である「克己創造」が言う通り、何も無いと思っていたAqoursが「本当は持っていた」という事に気付き自ら価値を創造してきた事は私達に感動と勇気を与えると共に、今度は私達が「照らされたから照らしてみたい」と言いたくなるような前向きなニヒリズムを語りかけてくれている様に思います。

行間の空白に意味をこめて

では、相対的時間つまり過去の振り返りという視点で見るといかがでしょうか。もし、過去に戻ってやり直す事ができるとしたら、どうしますか?

もし仮に過去からやり直したとしても、バタフライ効果によって未来の行く末が分からない事には変わりないという点が大きな問題となります。ではニーチェの思想に基づくとどうでしょう。「起きる事全てを受け入れて」 運命愛です。

この運命愛という考え方は一見簡単そうに見えて、実はとても難しいと私は思っております。なぜなら、自分にとって好都合な出来事だけではなく、自分にとって不都合な出来事さえも自分の一部であると受け入れるという考え方だからです。しかし、よく考えてみると、これはまさにラブライブ!サンシャイン‼、特に今回の映画「劇場版ラブライブ!サンシャイン‼ The School Idol Movie Over the Rainbow」の中核となるテーマとなっている事に気付きます。今回の映画作品も、ラブライブ!サンシャイン‼におけるニヒリズム表現の延長線になっているという見方もまた面白いのではないかと思います。

さて、運命についてはラブライブ!サンシャイン‼2期5話「犬を拾う。」でもテーマとなっていましたし、運命愛というとどちらかといえばAqoursの印象の方が強くなるかもしれません。しかし、私はμ's、とくに南ことりさんこそ運命愛を強く持っている人物なのではないかと考えています。

μ'sで運命愛を歌った曲というと”僕らは今のなかで”や”そして最後のページには”などが挙げられると思います。苦しさや怒った事、泣いた事も全て受け入れてミライに変えていく、私も大好きな曲です。では、ストーリー上ではいかがでしょうか。

にこ「よく言うわ。くだらない事で時間使っちゃっただけじゃない。」

ことり「そんなに無駄じゃなかったんじゃないかな。」

にこ「はぁ?どこが?」

ことり「私は楽しかったよ。お陰で衣装のデザインのヒントももらえた。」

にこ「衣装係って言われて損な役回りに慣れちゃってるんじゃない?」

ことり「私には私の役目がある。今までだってそうだよ。私はみんなが決めた事、やりたい事にずっとついていきたい。道に迷いそうになる事もあるけれど、それが無駄になるとは私は思わない。」

ラブライブ!TVアニメ2期6話「ハッピーハロウィン」より

μ'sが自らの個性に気付くハロウィン回ですが、私はその話の流れ以上に、このことりとにこのやり取りにとても魅力を感じます。にこが無駄だと一刀両断する一方で、運命愛を持ったことりが対比的に描かれており、「起きる事全てを受け入れて」いる事が分かります。

この話は、この姿勢が更に南ことり役を務める内田彩さんにも見受けられる点に感慨深さを感じます。運命愛を感じられる2つの作品、”Blooming!”と"Say Goodbye, Say Hello"を聴いていただいて、本記事を締めようと思います。

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おわりに

ラブライブ!における科学的視点というもの私は以前から興味深いものだと感じておりました。特に、時空間は私自身が科学的にも興味を持っていた内容でもあり、この2つの交点となる話を今回はさせていただきました。”ラブライブ!と科学”という視点はかなり前から持っていたのですが、ニヒリズムとの出会いは完全にさくらいさんとの出会いのお陰で、この考えを組み込むと更にラブライブ!における時間表現が興味深くなると感じ、本記事とさせていただきました。

さて、これにておしまいですが、おまけとして本記事で扱った科学現象について軽く触れておこうと思います。本題からは完全に外れますが、ご興味のある方はどうぞお付き合いください。

おまけ

ニュートン力学(古典力学)

慣性の法則運動方程式、作用反作用の法則の3つを原理として考案された物理学です。本記事と関連する事項で特徴的な事としては、絶対時間があります。ニュートン力学においては、時間は絶対的、つまり時間は観測者によって異なる事はなく、時間が一意的に決まるとその時点での空間や現象も一意的に決定するものとなります。

相対性理論

相対性原理と光速度不変の原理の2つに基づく物理学です。先述の通り、科学では原理が変われば結論が変わります。その結果として、時間の相対性、つまり観測者によって時間が異なるという結論が得られます。これは「観測者によって光速度が異なる事はない」という命題が出発点となっているからです。一見違和感を感じないかもしれませんが、この主張は「静止している人にも、光速度の2分の1の速さで運動している人にも、光速度の99 %の速さで運動している人にも、同じ光の速度で観測される」と主張しているのです!ニュートン力学における相対速度の概念をご存知の方はとても違和感を感じると思います。では、相対性理論が受け入れられている今なお、なぜ多くの人が時間の絶対性の中で生きているかというと、それは相対性理論の結果の式を近似するとニュートン力学の式になるからです。相対性理論では補正項の中に(v/c)^2という項が生じますが(v:観測者の速度、c:光速度)、通常の生活をしている人にとっては(v/c)^2 ≒ 0です。だからこそ、私達の多くにとっては時間は絶対的であり、かつ、相対的な時間も考慮する事ができるのですね。

・カオス理論

カオス理論は「未来を予測できない」という点に大きな主眼があります。これは初期値への鋭敏性、つまり始まりのごくごく小さな誤差が、最終的な計算結果に大きな誤差をもたらすという言い方もされます(つまり、バタフライ効果の事ですね)。例えば、1日後のある時点での出来事を決定する写像fがn個の独立的イベントX1~Xnで決定されると考えましょう。難しい書き方をしましたが、関数f(X1,X2,・・・,Xn)を考えると読み替えていただいても大丈夫です。X1~Xnが互いに独立である場合、分散の式は

V[f] = Σ V[Xi]

となります。式で書くと分かり辛いかもしれませんが、この結果を一言で言うと、「計算を繰り返す程誤差が大きくなっている!」という事です。つまり、各独立変数の分散が0でない限り、結果の分散は果てしなく大きくなり、予測値としての意味がどんどん小さくなるのです。

では、独立変数の分散を0にすれば良いのではないか?と思われるかもしれません。しかし、実際に誤差なく分かる観察結果はまずありません。更に、1人の人間の未来を予測するとした場合、そもそも必要となる独立変数がいくつあるのかさえ分かったものではありません。小さな違いが故に、未来に大きな違いとなる、故に未来の僕らは知ってても、今の僕らは知る事がない訳ですね。

・文献

更に詳しく知りたいという方の為に、参考になる本を紹介して終わります。

大宮信光 (2018). 「眠れなくなるほど面白い 図解 相対性理論日本文芸社

② 広江克彦 (2012). 「趣味で相対論」 理工図書

エドワード・B・バーガー & マイケル・スターバード 著. 熊谷玲美・松井信彦 訳 (2010). 「カオスとアクシデントを操る数学 難解なテーマがサラリとわかるガイドブク」 早川書房