”孤独”の意味を考える

序文

 2019年が終わろうとしています。今年もラブライブ!に支えられ、たくさんの方に支えられ、大変有意義で楽しい一年を過ごす事ができました。ありがとうございます。

 ラブライブ!においても、新しい視点を得る事ができた、とても嬉しい年となりました。その締めくくりの代わりとして、最近考えさせられたテーマについて取り組みたいと思い、本記事とさせていただきました。

 

2019年の思い出

 思い返してみると、2019年は沼津で初日を迎えました。年越しを、そして年始をラブライブ!に囲まれて過ごす事ができ、大変有難い思い出となっております。

 ラブライブ!サンシャイン‼ The School Idol Movie Over the Rainbowが公開されたのも2019年の一月でした。この映画の祈願として神田明神に絵馬が設置されましたが、今なおも絵馬は健在で神田明神に行く度に見掛け、とても懐かしい気分になります。

 それからも楽しみに尽きず、また新しい出会いをたくさん頂けた年となりましたが、本題から外れてしまうので最近の話に移りたいと思います。

 ここ数か月の事としてはラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARSのリリースおよび虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の活動は大きなニュースでした。待望のスクールアイドルフェスティバル ALL STARSはストーリーがとても濃い内容となっており、大変楽しませていただいております。また、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の活動としても、校内マッチングフェスティバル以降は様々なフェスにもご出演され、そして今月はワンマン1stライブもいよいよ開催されました。今回のライブは「大好きを咲かせる」という想いが強く感じられ、大変魅了されました。

 そして、もう一つ最近衝撃的だったものとしてAqours各ユニットによるラブライブ!スクールアイドルフェスティバル コラボシングルのリリースがあります。今までのユニットシングルとは一味変わった特色のある楽曲が多く、とても楽しませていただいています。

 前置きが長くなりましたが、今回はAqoursユニット スクフェス コラボシングルと虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会について主に扱いたいと思います。まず次章では、Aqours各ユニットのスクフェス コラボシングルについての感想を述べつつ、本記事での問題提起をしたいと思います。

ユニットシングルを聴いて

 先日、各ユニットからスクフェスコラボシングルの『New Romantic Sailors』『Amazing Travel DNA』『Braveheart Coater』がそれぞれリリースされました。3ユニット計9曲を聴いて感じた事としては、「各ユニットの特色を生かしつつ、畑亜貴さんの趣味が入った様な内容になっている」という事でした。

 それを感じた最初のきっかけはシングルのタイトルが発表され『Amazing Travel DNA』という言葉を聞いた時でした。非常に”人為的”な言葉だと感じます。

 というのも、わざわざ”DNA”とつけなくても『Amazing Travel』だけでも曲のタイトルとして成立するからです。DNAとは”デオキシリボ核酸”の事で良いとは思いますが、そのDNAを曲のテーマである”冒険”に組み込ませる必要があったのだろうか。

 これは実際に曲がリリースされて初めて分かった事ですが、曲中全体を通しても一箇所でしかDNAに関する記述がありません。”DNA”でなくても同じリズムの言葉で冒険を示唆する言葉であれば成立する様にも感じますし、そもそも一箇所でしか隠喩を用いていないのであれば、比喩を使う必要さえなかったのではないかとも感じます。

 では何故数多ある言葉の中から”DNA”が選ばれたのか、その問いの答えこそ「畑亜貴さんの趣味を取り入れたから」ではないかと私は考えております。以前の記事で「言葉による存在の開始」の話がありましたが、畑さんにとって今年 ”存在が開始”したものの象徴として”DNA”があったのではないかと思っております。畑さんが今年ご興味を持たれた言葉の一つに”synthetic biology”があります。*1 synthetic biology(合成生物学)とは生物・化学・工学などを組み合わせた様な学問ですが、その中の重要な一領域としてDNAをはじめとした遺伝子の研究があります。

 synthetic biologyとの出会いが畑さんにとってどの様な意味を持つものであったのかについては想像する事しかできません。しかし、話を伺う限りではある種人生のスパイスとでもなる様な刺激であったのであろうと推察しております。以上を踏まえると、『Amazing Travel DNA』はsynthetic biologyとの出会いと”冒険”というテーマを両立させつつAZALEAらしさを体現したかの様な非常に面白い曲の様にも思われます。

 この事を前提として改めて各楽曲を聴いて見ると、それぞれの楽曲についても”畑さんらしさ”を出しつつユニットの特色が生かされているのではないかと感じられます。今回のユニットシングルは、いつも以上に”趣味を出した”様な作品なのではないかというのが感想です。

 若干脱線しましたが、本題に戻ります。今回扱いたい内容はユニットシングルの中でも『Braveheart Coater』のカップリング曲である『コドク・テレポート』について、更に言うと、本記事のタイトルにしている通り”孤独”についてです。『コドク・テレポート』は、曲全体としては大事な人に会いたいという内容になっていますが、そんな中でも「コドクな時間も大事」であると”孤独”を必ずしも寂しいだけのものとは捉えていない様に感じます。

 ”孤独”はラブライブ!が掲げる「みんなで叶える物語」「あなたと叶える物語」とは相反する概念の様に一見思われます。そんな”孤独”が何故今回テーマとして扱われたのか。『コドク・テレポート』を通して、そして畑亜貴さんのお言葉を通して、”孤独”について考えたいと思います。

「孤独」

 まず、コドクの漢字変換としては私の知る限り「孤独」と「蠱毒(蟲毒)」の二つですが、『コドク・テレポート』の文脈で呪術の話はないでしょうし、「孤独」の話に限定させていただきます。「孤独」の辞書的な意味としては「ひとりぼっちのこと。頼りになる人がいない状態」といったところでしょうか。意味内容からしても、あまり良い印象のある言葉とは思われません。

 その反面、「孤独」という言葉は現代社会においても様々な社会問題を通してしばしば耳にする言葉です。興味深いものの一つとして「孤独」を通じた健康格差問題があります。Holt-Lunstadらの研究では「孤独」と健康の関連について調べられており、社会的孤独は喫煙、肥満、運動不足といった一般的な危険因子と同等レベルの健康リスクを呈する事が示されています。*2 「孤独」が健康に与える影響として、ストレス緩和効果や社会活動が増える事による間接的健康増進効果、社会貢献に関与する事による精神的充足感などが考察されていますが、なにはともあれバイアスを取り除いた研究においても「孤独」と健康の関連が示されている事には驚きを感じます。

 この様に「孤独」は良い印象はあまり持たれないだけでなく、実際のデータとしてもマイナス効果が表れている事が分かります。では、そんな「孤独」について畑さんはどの様に表現をされているのか、次章から考えていきたいと思います。

”孤独” 

 畑さんご自身の作品の中にも”孤独”をモチーフにしたものがいくつかあります。”孤独”を扱ったものの一つとして『毀レ世カイ終ワレ』があります。今年のLantis祭でも披露されている畑さんの代表作です。

 本作品では曲の冒頭から「私以上の孤独はこの世にない」という強烈な言葉から始まっており、まさしく”孤独”を扱った曲と言えるでしょう。開始から「私が一番”孤独”だ」と宣言しており大変インパクトがあります。この「私以上の孤独はない」という命題において”私”が何を意味するのか、”孤独”が何を意味するのかは非常に重要な問題です。なぜなら、これは音楽の歌詞であり、数多いる聴き手に対して矛盾なく提示できる命題であるべきだからです。

 この問題だけを考えるのは非常に難しいため、もう一つの”孤独”をテーマとした作品に注目したいと思います。その作品とは、最近リリースされた『Motto-Motto』という曲です。こちらの曲は「Motto-Motto 孤独にならなきゃ」という一文から始まり、孤独を否定しないどころか、自ら孤独になろうという意気込みを感じます。

 この曲は今年の10月26日に行われた「AKI HATA STUDIO LIVE Vol.01」で披露され、その際にこの曲の孤独感について畑さんご自身が触れられていました。

「私達は人との繋がりを求めがちだけれど、その結果逆に強い繋がりというものを失ってしまう。だから、もっともっと孤独にならなくてはいけないのではないか。」*3

 この様な意味内容であったと記憶しております。また、『Motto-Motto』について、以前にご紹介させていただいた畑さんのnote. においても曲紹介がされております。

もっと孤独になって、外界に囚われず自分のやりたいことを突き詰めて、理想に手を伸ばしたい…。

時間は有限…本当に望むことを為していかないと、という決意表明

     note. たたらじ/感情言語化研究所 「もっともっと孤独になんなきゃ。」 より

 多少脱線してしまいますが、この話を見て私は『徒然草 第百八十八段』の法師になるために乗馬や早歌を学んだ者の話を思い浮かべました。triage(トリアージ)という言葉がありますが、この言葉は本来であれば自分が最も望む事に対して適応すべき言葉なのであろうと思います。

一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中、一時の中にも、数多の事の来らん中に、少しも益の勝らん事を営みて、その外をば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。 (中略)

一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。

       『徒然草 第百八十八段』 より

 さて、”孤独”の話に戻ります。『Motto-Motto』で表現されている畑さんの”孤独”は「自分のやりたい事を突き詰めるための手段」として扱われていると思います。では、この”孤独”は一般的な「孤独」が持つ様な「ひとりぼっち」という意味合いを併せ持っているのでしょうか。

孤独の意味 

 畑さんの人間関係は決して「ひとりぼっち」なものとは思われません。畑さんは様々な分野の方と広く交友を持たれており、そのご様子は「孤独」なものではないと感じられます。しかし、畑さんの場合特殊な点としては、”人間関係の形成が先行している訳ではない”という事だと思います。

 私達の生活において”人間関係形成の先行”はある種避けられない場合の方が寧ろ多いと思います。小児~青年期では学校というコミュニティーに属し、成人してからは仕事・会社内などでの人間関係というものは避けられません。ほとんどの場合において私達は出会いを選べませんし、出会いを取捨選択していては成り立たない事は多くあります。

 そんな中、畑さんは不可避な力によって形成された関係よりも、ご自身で選んだ関係性を大切にされている様に思われます。それは人間関係形成の前に”自分の望む事”を先行させているからだと思います。先の章で”孤独”が「自分のやりたい事を突き詰めるための手段」として扱われているという話をしましたが、”自分のやりたい事”が先行し原理となっている様に思います。その関係性は自然な人間生活で形成されたものではないため一見とらえどころがない様にも思われますが、一つの原理をもとにして形成されたという事はいつまでたっても確立された定理として形成され強固な関係性を築かれているのだと感じます。

 以上をまとめると、”孤独”とは人間関係を先行させず”自分のやりたい事”を先行させる事、つまり”自分の大好きを大切にする事”として捉えられているのではないかと思います。これは、人間関係を疎かにしているという事ではなく、「万事に換へずしては、一の大事成るべからず。」という事なのだと思います。そして、これこそが「コドクな時間も大事」と言いつつ「会いたい病」の両立なのだと感じます。

 先日、たまたま使用したお手洗いの壁紙にこの様な言葉が書かれていました。

”True love doesn't mean being inseparable; it means being separated and nothing changes.”

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 この言葉はまさに畑さんが「AKI HATA STUDIO LIVE Vol.01」で仰っていた事と類似内容ですし、更に拡張して考えるとラブライブ!サンシャイン‼ The School Idol Movie Over the Rainbowのテーマの一つでもあります。”孤独”を恐れず"separated and nothing changes"な関係にこそ自分自身の深淵を投影させる事ができるのでしょう。

 私には中学高校時代からの旧友が数人いるのですが、大学以降は全員専門分野が異なり完全に違う人生を歩んでいます。それでも、一年に2・3回程は会う仲で、"separated and nothing changes"な関係だと感じております。つい先日にも忘年会を行ったのですが、久々に会っても尚お互いの距離は遠くなる事はなく「何のために生きているんだろう」「今の世の中で我々が考えるべき事は何なのだろう」といった疑問を真剣に議論し合える大変ありがたい親友を持ったと感じております。”自分の望み”を先行させても尚成り立つ関係性だからこそ、いつまで経っても朽ちる事はないし、この先も延々とこの様なとらえどころのない話を仲良くできるのだろうと感謝しております。

 そしてもう一つ感じる事としては、師として仰げる人の言葉を直に耳にする事のしやすい貴重な時代に生きているという事です。『徒然草 第百八十八段』の最後は以下の様な節で締めくくられています。

人の数多ありける中にて、或者、「ますほの薄、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺の聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゝしく、有難う覚ゆれ。

        『徒然草 第百八十八段』 より

 現代は室町時代の様に、師の言葉を頂くために雨風の中を抜ける必要はありません。寧ろ、今は自分が望む望まないに関わらず、毎日多量の情報を耳にしなければなりません。そんな環境だからこそ、今度は師とする人の言葉を貪欲に摂取する姿勢が大事になっているとも感じます。

孤独と大好きの関係 

 自分のやりたい事を突き詰めた結果は「孤独」ではなく”孤独”に至るという話をさせていただきました。人間関係の話を抜きにしても、自分のやりたい事を突き詰めるという行為は実際に他の人に頼る事のできない一人の戦いであると思います。というのも、自分が感じた想いを帰納的に突き詰めて帰着させ、自分自身が納得のいく形で一般化させる必要があるからです。

 かなり前の話に戻りますが、「私以上の孤独はない」とはこういう事を意味しているのではないかと思っています。つまり”私”自身を突き詰めるという行為こそ孤独な行為なのではないかという事です。『後漢書楊震伝 に「天知る、神知る、我知る、子知る」という言葉があります。この言葉は、悪事は隠しきれないという意味の故事として用いられますが、その隠しきれないものの中に”我”が入っている事には非常に重い意味を感じます。

 自分自身の感情には嘘をつけないから真直ぐ向き合わないといけない、その為に自分の想いの基の原因は何なのかを帰納的に見つけなくてはいけない。自分自身にしか出来ない作業であるにも関わらず、そこには嘘をつく事ができずに”答え”が出るまで頭を悩ませないといけない。自分にとっての原理を最終的に見つけ出せるのは自分だけ、自分の感情と向き合う事の孤独さを実感します。

 しかし、特に”大好き”という感情においてはこの営みは欠かすべきではないとも思います。というのも、原理に裏打ちされていない感情は異なるthesisの登場によって容易にその意味を変え、結果的に自分の”大好き”が何なのか分からないままになり得るからです。

大好きが咲いている

 先日の「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 First Live "with You"」は大変感じるところの多いライブでした。”大好きが咲いている” そう歌われたあのライブはその言葉通りの空間を実現していた様に感じます。ここで注意したいのが、あのライブで見る事が出来たのは”大好きが咲いた花”であって、その元の種や蕾は別の場所にあるかもしれないという事です。

 当ライブで印象的だった事の一つに 楠木ともり さんのMCがあると思います。

「自分の大好きを大切に 他の人の大好きを大切に」

 私はこれを同時に目指す為に必要な事こそ”大好きの帰納化”であると思っています。”大好き”という感情は知らず知らずの内に抱いている事も多いものではありますが、あくまでこの感情は結果でしかありません。仮に自分が実感していなかったとしても、実際にはこの感情に至るまでにその根拠となった前提が各自の中である筈です。自分の大好きを帰納的に遡り、根源的な自分の理念を見つけようとする事、それこそが自分の大好きを大切にする事、他の人の大好きを大切にする事に繋がると思っています。というのも、確固たる公理から導かれる定理はいつでも変わらない結論を導き出し、各自の中で一貫性のある大好きを実現させるからです。

 以前、友達から”オタク ナショナリズム”という言葉を聞きました。ナショナリズムとは政治の言葉では国家・民族単位での思想の統一化といった意味合いです。そのナショナリズムと類似した現象がオタクの世界にもあるのではないか。

 大変興味深い意見であり、確かにある種の”オタク ナショナリズム”は実際に現状として存在する様に思います。「この表現の解釈については~~~という意見が大多数だ」「キャストが~~~と言っていたからここはこうだ」といった固定観念化がその一種でしょうか。様々な次元に”オタク ナショナリズム”は潜んでいる様に思いますが、とりわけ今回のテーマである”大好き”という感情に対して”オタク ナショナリズム”が適応される場合には危うさを感じます。

 「自分の大好きを大切に 他の人の大好きを大切に」という言葉は人によって”大好き”が違うというdiversityを前提にしている言葉であるとも言えます。これはある種当たり前の事で、帰納化された”大好き”が人によって異なるという話でもあります。”オタク ナショナリズム”という考え方はそのdiversityに目を瞑り、感情の帰納化を怠った結果なのではないかと思います。

 勿論、一人の人間が何かを追い求めて考える時間など限られています。だからこそ、他の人の”大好き”に対して我々は憧れを抱き、その言葉に触れたいと思うのでしょう。しかし、その際に自分にとっての根源が何なのかを見失わない様にしないといけないという教訓を”オタク ナショナリズム”という言葉から感じます。

大好きが溢れる世界

 ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS ストーリー第9章「せつ菜の試練」は非常に面白い内容でした。「大好きな事をするべき」という中川菜々 さんと「得意な事をするべき」という三船栞子 さんの意見が対立する意見として提示されていました。

 私はこの話の中での三船栞子 さんはとても有難い人物であると感じました。元々、中川菜々 さんはご自分の行動原理ともなる様な大好きの根源を持たれている様に感じます。だからこそ、彼女にとって生徒会はその手段であり、あくまで目的ではなかった筈です。話の中でそれを見失った菜々 さんに対して、帰納化された”大好き”が演繹化できていないと指摘するという事は、同好会のメンバーでは出来なかった事でしょう。「得意な事をするべき」という栞子 さんの理念の是非については議論の余地があると思いますが、各自の行動についてその理念の根源を明確化させようとする彼女の考えは見習うべき姿勢なのだろうと思います。

 その一方で、「大好きが溢れる世界」に対する見方には少し疑問が残りました。話中で剣道が好きだけれど得意ではない人がいたらどうするかという議論があったと思います。私は、この議論の中にこそ”大好き”の帰納化を適用させるべきだったのではないかと思います。

 先述の通り、”大好き”という感情はあくまで結果であり、そこには先行する原理が存在する筈です。「剣道の何が好きなのか。何を思っているのか。何を享受しているのか。」それを明確化させる事が出来ていれば、例え剣道が得意ではなかったとしても貴重な財産となっている筈です。

 三船栞子 さんは、成功体験は力になると仰っていました。私もその通りだと思います。だからこそ、自分の気持ちに向き合う事が出来たという成功体験はかけがえのないものとなると思っています。

 「天知る、神知る、我知る、子知る」

 自分自身を誤魔化す事は絶対に出来ない。だからこそ、”大好き”と向き合いその根源を正確に見つめようとする事は非常に困難であると同時に、lifeworkとして取り組みたいと思える事なのでしょう。

 中川菜々 さんへ、虹ヶ咲学園 生徒会長選挙での一票を投じさせていただき、締めくくりとさせていただきます。

結語

 最後までお付き合いくださりありがとうございました。

 今回の文章は大変難産でした。書きたい内容や自分の思っている事は頭の中では分かっているのに、いざ文章におこそうと思うと難しく、まるで数式を無理矢理言葉に代えているかの様な感覚でした。やはり感情の言語化というのは難しいもので、これからも頭を悩ませる事になりそうです。

 そして、いつも仲良くしてくださっている方々や興味を持ってくださる方々には感謝するばかりです。2019年を無事に終えられました。ありがとうございます。

 2020年になりますが、これからもどうぞ宜しくお願い致します。

*1:当該の話は以前にご紹介させていただいたラジオ内で詳しいお話がありましたので、宜しければ御試聴ください。

*2:Holt-Lunstad, J., T. B. Smith & J. B. Layton (2010) Social relationships and mortality risk: a meta-analytic review. PLoS Med, 7, e1000316.

*3:正確なお言葉を覚えていなくて申し訳ありません。私が覚えている意味内容を記しましたが、誤解がある可能性もございます。正確な記述が出来なかった事をお詫び致します。