川本美里さんの鑑別

緒言

ラブライブ!はスクールアイドルに主眼を置ている事もあり,その作品内で器質的背景疾患を持つ登場人物は描かれていませんでした.一過性の急性上気道炎に罹患した方などはいらっしゃいましたが,入院を要したり継続的通院を要したりする方は過去に登場していなかった様に思います.
そんな中,この度放送されたラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会TVアニメ2期4話「アイ Love Triangle」では闘病生活を送っていた人物として川本美里さんが登場しました.すると,ふとこの様な疑問が生じます.「川本さんが罹患した病気は一体何なのか.」
本誌ではこの問いに対して取り組みたいと思います.

医学における診断までのプロセス;鑑別とは何か

まず,川本さんの病気自体の話をする前に,病気が診断されるまでの過程について説明したいと思います.ある意味,患者と初めて対面した時は情報量0からのスタートであると言えます.その状態から情報を適切に集めて様々な可能性を検討するというのが診断までの重要な過程になります.その過程を言語化すると,➀臨床症候の評価,②鑑別疾患の検討,③鑑別に対応する検査と表現する事が出来ます.
➀臨床症候の評価とは,その疾病によって患者がどの様な状態にあるのかを把握する事です.これは,問診および診察によって把握する事が出来ます.
そこからすぐに検査に移るのではなく,②鑑別疾患の検討が重要な過程としてあります.(慣れてくると,この過程は頭の中で一瞬で終わる様になりますが…)検査をする際,何かしらの病気を疑った上で検査をする必要があるという事です.例えば,脚が痛いと言っている人に対して腕のレントゲンを撮影しても意味がないですよね.これは極端な例ですが,いずれにせよ,可能性として疑う必要がない病気に対する検査は行っても意味がありません.そこで,どの様な病気の可能性があるのかを集めた情報(臨床症候)から可能性のある病気を挙げる過程が必要になります.この作業を”鑑別”と言います.そして,その鑑別された疾患に対応する③検査を行う事で診断に至る事が出来ます.
多少イレギュラーなパターンもありますが,概ねこの様な過程を踏んでいると思います.
では川本美里さんの場合,どこまで検討する事が出来るでしょう.当然ですが,検査は行う事が出来ません.そのため,診断を確定出来ない事は前提となります.臨床症候についてはTVアニメ内での描写を見る事で部分的には把握する事が出来ます.ただし,通常の診療レベルでの問診が出来る訳ではないですし,診察が出来ない事は言うまでもありません.そのため,臨床症候についても限定的な把握にとどまります.それでも,限られた情報から類推し,鑑別疾患を挙げる事は出来ます.
本記事で可能な検討は”アニメ描写から得られる臨床症候から鑑別疾患を挙げる事”である旨を念頭に置いた上で以降の議論をお読みいただければと思います.

川本美里さんの情報と特徴

では,川本さんの臨床症候を纏めていきましょう.
川本さんの初登場はラブライブ!スクールアイドルフェスティバルALL STARSです.宮下愛さんのキズナエピソード8話で登場し,間もなく身体が丈夫ではなかったという事が明かされています.
この時点では疾患を考える上での手掛かりはほとんどありませんでしたが,今回放送されたTVアニメではかなり多くの情報が追加されています.
・若年女性
・小さい頃には公園で遊ぶ事が出来ていた
・学童期に,既に入院をしていた事がある
・入退院を繰り返した
・現在では寛解が得られている
・退院後も疲れ易さはある
・海外で働きたいと思っていたが,それが難しい
・入院中に大変な治療をした事がある

これらには,解釈に困るものも含まれています.まず,寛解が得られているというのは維持治療(継続的な内服薬)によって病気の勢いが抑えられているからなのか,未治療でも良い状態となったのかでも大きく意味は異なります.次に,疲れやすさです.病気と関連した症状と考えるのであれば”易疲労感”を伴う疾患という事になりますが,この話は退院直後のものなので,入院生活に伴う筋力低下でも疲れやすさが説明可能と感じます.更に,海外勤務の話も解釈が分かれます.描写からすると「英語の勉強を十分にする事が出来ていなかったから」とも捉えられますが,ドクターストップによる影響はないか.海外勤務が困難である事が病気によるものである可能性も考慮すると,それでも鑑別の方向性が変わってきます.最後が”大変な治療”です.「大変」というと主観的な言葉なのでどの程度かは分かりませんが,私が気になったのは末梢静脈路(点滴)が描かれていなかった事です.入院で大掛かりな治療となる場合には,腕に末梢静脈路を留置して,薬剤を投与出来る状態とする事が多いです.「大変」な治療をするのであれば尚更だと感じます.その一方でTVアニメ内では末梢静脈路どころか,点滴棒もありませんでした.どの様な治療を受けていたのか,内服薬だけだったのかどうか,これについては想像するしかありません.

この様に不確定要素は多々ある様に感じます.それを承知の上で川本さんの状況を纏めるとすると,「学童期に発症し,入退院を繰り返す多層性の経過を呈する若年女性症例.臨床症候としては易疲労感を伴う可能性がある.病状については既に寛解が得られている.」と言う事が出来ます.では,これに該当する可能性のある疾患を考えてみましょう.

鑑別疾患

若年で入退院を繰り返すという点からは,治療が不十分だと病気の勢いが悪くなるタイプだと類推されます.それを踏まえると,自己免疫性疾患の可能性が高い様に思います.悪性腫瘍も同様の特徴がありますが,若年で悪性腫瘍を発症する可能性は低く,あるとしたら血液腫瘍になると思います.他には,家族性の病気も若年発症であり得る様に思います.これらの特徴を踏まえ,鑑別疾患を挙げます.
・消化器疾患:炎症性腸疾患(潰瘍性大腸炎クローン病),好酸球腸炎
・循環器疾患:特発性肺高血圧症,拡張型心筋症
膠原病疾患:ベーチェット病,サルコイドーシス,血管炎,膠原病(SLE,強皮症,皮膚筋炎 など)
・呼吸器疾患:肺リンパ脈管筋腫症,好酸球性肺炎
・血液疾患:血液腫瘍(白血病
・内分泌疾患:副腎不全,甲状腺疾患
・脳神経疾患:多発性硬化症関連疾患(MS,NMOSD,MOGRD),炎症性筋疾患,重症筋無力症,自己免疫性末梢神経障害(GBS,CIDP など),症候性てんかん,髄液漏出症候群
挙げるとキリがないですが,いくつか思い浮かんだものを挙げてみました.正直,これ以上確定させる事は困難ですが,やはり自己免疫性疾患は多く可能性として挙がります.大きな枠組みとして分類すると,➀自己免疫性疾患,②腫瘍,③内分泌疾患,④その他と分けられると思います.それぞれの場合について,今後想定される事を次項では記します.

それぞれの疾患で考えられる事

➀自己免疫性疾患
体内の免疫が自身の臓器を攻撃する事で生じる病気を自己免疫性疾患と言います.この病気の治療は免疫を抑える事,つまり免疫抑制薬になります.免疫抑制薬は副作用として感染症のリスクを上げるため,高用量を使用していると海外へ行きづらい,頻繁な外出をしづらいといった注意点が生じます.また,自分の免疫が病気の原因のため,治療を行っても根本原因は体内に残っており,薬剤でその勢いを抑えるという事もよくあります.川本さんの場合,既にお元気で海外にも行こうと思えば行けるご様子でもあるので,自己免疫性疾患の場合でも比較的免疫抑制薬が少量になるレベルで病気の勢いが抑えられている可能性があります.
②腫瘍
腫瘍といっても血液腫瘍,つまり白血病です.発症し病気の勢いを抑えて,地固め療法,維持療法を行ってとすると経年的な治療になるので,入退院を繰り返したという点は合致します.また,易疲労感や海外渡航困難も合致します.血液疾患として考えた場合に不可解な点としては,大勢の面会が許されていた事があります.血液疾患の患者は免疫力が低下しているため,特に急性期だとかなり強い面会制限がかかる筈です.ある程度寛解が得られた状態であれば多少面会も許されるとは思いますが,幼少期の宮下さんも描かれていた事から経年的に面会が許可されていた様に思われる点はやや合致しない印象を受けます.
③内分泌疾患
内分泌疾患はその種類にも寄りますが,クリーゼを過ぎれば元気な状態で健常者と変わりなく過ごす事が出来る様になると思います.内分泌疾患と考えた場合に非典型的なのは入院頻度です.基本的に内分泌疾患は外来診療でも対応可能な事が多く,クリーゼと呼ばれる緊急病態に陥った際や根本治療のための処置をする際などに入院する程度かと思います.入退院を繰り返したと聞くと,内分泌疾患としてはコントロールが不良過ぎるという様に感じます.
④その他
てんかんなどは分類不能なので,その他とくくりました.てんかんは若年でも起こり得て,末梢静脈路無しでも治療が出来て,改善すると健常者と変わりない生活が出来るという点でかなり合致します.再発しやすく入院を繰り返す,場合によっては大変な治療(気管挿管や鎮静薬)をする事もあるという点も当てはまります.勿論,海外へ行ってはいけない理由もありません.ただし,入退院を繰り返すレベルのてんかんとなると,てんかん後脳症と呼ばれる後遺症があっても良い様にも思います.

結語

今回は話の本筋とは全く無関係な議論をさせていただきました.本筋と無関係といいつつ,人物の背景情報をより多く得ようとする営みとして,一考の余地があるテーマかと思います.特に,ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会TVアニメ2期4話「アイ Love Triangle」は川本さんの人物背景が大きく関わる内容でもあり,この観点でも川本里美という人物についてより想像を巡らせる事が出来るのではないかと思います.

星を探して

本記事は”星”をキーワードとしつつ,畑亜貴さんとラブライブ!スーパースター!!(Liella!)の2021年作品に焦点を当てたものです.

はじめに

2021年もいよいよ終わりが近づいてきました.新しいもの・作品・考え方を享受出来た一年となった事を感謝しております.そのうち以前から興味を持っているテーマについてもアップデートをする事が出来たので,それを纏めようというのが本記事の目的となります.2021年8月時点で構想を巡らせており,早いうちに取り組みたいと思いつつ時間が経ってしまったのは反省点です.ただ,時間が経った分,内容を温められた所もあり,それを形にして整理する事には大きな意味があるだろうと思い,筆を取っております.

今回の内容は畑亜貴さんの人生観に焦点を当てる所から端を発しました.私は畑さんが創られる詞がとても好きで,自然に情景が浮かぶ描写と併せてその裏に素敵なメッセージを垣間見える点に大変魅力を感じます.畑さんは作詞家と同時にシンガーソングライターとしても御活躍されておりますが,そのどちらにおいても詞の素敵さをヒシヒシと感じます.そんな中,畑さんは作詞家として詞を書く際とシンガーソングライターとしてご自身の作品を書く際とでスタンスが異なるという事を公言されています.2021年9月18日にNHK-FMにて放送された『アニソン・アカデミー』にて,畑さんは「作家の時は自分を表現する事よりも,作品としてどう見出すかを考えている.自分の作品の時は,自分の気持ちを言語化したいという気持ちがある.」とお話をされました.確かにラブライブ!をはじめ作家として取り組まれた作品とご自身の作品とでは一見その内容に解離がある様に感じられます.例えば,2014年4月にはラブライブ!のμ'sから『それは僕たちの奇跡』がリリースされましたが,ほぼ同時期に畑さんご自身も『愛するひとよ真実は誓わずにいよう』という楽曲を発表されています.

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片や「夢を叶えるのはみんなの勇気」と明るい印象を与える詞である一方で,他方では「救われたい偽りから」と絶望を予感させる様な暗い詞であり,そこにはギャップも感じられます.(ある意味,『それは僕たちの奇跡』のカップリング楽曲である『だってだって噫無情』には近しい所もあるでしょうか.)

この様に,一見作詞家としての作品とご自身の作品とで解離があるとされている畑亜貴さんですが,実際にはその限りではないのではないかと私は思っています.つまり,”作詞家として創られた作品においても畑さんご自身の気持ちの言語化が表れているものがあるのではないか”と考えています.ヒトの手によって出来た創作物である以上,潜在的にその人の考え方・想いが込められている可能性は十分にあるでしょう.まずは,経時的にアップデートされていく畑さんの人生観と作詞家としての作品にどの様な関連が想定されるのかを見ていきたいと思います.

畑さんの人生観とラブライブ!作品

畑さんの人生観を考える上で重要な手掛かりとなるものとして,畑さんの公式ブログがあります.畑さんは齢50より,年末年始や誕生日といった節目にご自身の人生観やその年の目標・アップデートなどを記されており,”thinking about my life,”というタグで纏められています.まず,そこから感じられる人生観とその年のラブライブ!作品を比較検討してみましょう.(正確には50の歳となる数年前に書かれたものから”thinking about my life,”のタグ付けをされた記事がありますが,ここでは誕生日にブログを書かれるようになった2016年以降を扱います.

 2016年

畑さんはこの年の目標として「未来を楽しむ準備をしながら,今日を楽しむ.」を挙げられています.[1] その内容の一端として畑さんは以下の様に記されています.

歌詞で「今が最高」「今がすべて」と,たくさん書きました.[1]

これは2015年にリリースされた『僕たちはひとつの光』や『ミはμ'sicのミ』といったラブライブ!作品を踏まえての言葉だと思われます.やはり,作詞家としての提供作品であれど,真剣に向き合われたものには人生観と関連していくものもあるのでしょう.畑さんはその後に,「日々のその瞬間を重ねていけば,次々と新しい夢が生まれ,いつが最期のときであっても素敵な人生だったなと振り返ることができるのでは」と続けられています.[1] 日々を素敵なものにしようと努力し新しく生まれる夢に心を踊らす,これは正しく2016年3月にリリースされた『MOMENT RING』を彷彿とさせる様な考え方です.μ'sの集大成とも言える作品に畑さんの人生観の一部が投影されており,とても面白さを感じます.

もう1つ挙げられるキーワードとして"無力な自分との対峙"があります.[2] 後方視的に見ると,このテーマは畑さんにとって経年的なものであると推測されますが,初めて明確に記事で残されたという点は2016年の特殊性です.この"無力な自分"という言葉には様々な意味が込められている様に感じますが,その1つを簡略化して表現するとしたら「なかなか理想に到達する事が出来ない自分」といったところでしょうか.

たとえ願いが叶わなくても,理想に向かって生きることで人生の喜びを手にすることができると,私は考えています.[3]

「願いが叶わなくても,理想に向かって生きる」というテーマ,2016年に発表された楽曲を振り返りつつこのテーマについて考えてみると,『届かない星だとしても』を思い出します."夢を描く"ことが"星に手を伸ばす"と形容されているこの楽曲はとても前向きな印象を感じられ,"無力な自分"という一見暗いイメージを与えるキーワードがオブラートに包まれたかの様な感覚に陥ります.さて,ようやく冒頭で出した"星"という言葉が出てきましたが,まずは各年の畑さんの人生観を考える事を先行させようと思いますので,"星"にはまた後で再登場していただく事にします.

2017年

この年のトピックとしては,"音楽家としての自己像","旅","出会いと別れ"が挙げられます."音楽家としての自己"を議論する上で,畑さんは重要な言葉と出会います.[4]「音楽に情熱を感じていたり,楽器を練習する理由を理解していれば必ずできる.音楽家としての自分と普段の自分を深いレベルで一体化させることが.するとやがて音楽と人生は相互に作用し,果てしない充実感に満たされる.」これは"シーモアさんと,大人のための人生入門"という映画作品の一節です.「音楽家としての自分と普段の自分とを一体化させる」とはどういう事か,短絡的には回答出来ない難問ではありますが,"一体化"を理想だと解釈するのであれば,少なくともそこには理想と実際とに解離がある"無力な自分"が潜在しているという事は分かります.夢・理想・無力,これらのキーワードは形を変えつつもアップデートされた問題として登場するのでした.

”旅”も畑さんの重要なキーワードの1つです.畑さんは旅を大事にされており,毎年国内から国外まで様々な場所へ足を運んでいらっしゃいます.そんな中,2017年は畑さんにとって”旅”の意義を実感された年であったと考えられます.

昨年の旅が,自分を見つめ直すいい機会になったので,今年も誕生日前に旅をしてきました.自分を更新する作業がしたかったのです.[4]

自分をアップデートする糧として”旅”を扱われている事には面白さが感じられます.目指すところがあるからこそ”自分を更新したい”という言葉が出てくるのでしょう.”旅”を大事にされている畑さんの背景に,更に畑さんが大事にされている信念を垣間見える点には驚嘆させられます.

2017年のもう1つのテーマとして”出会いと別れ”があります.この年は畑さんにとって,新しい出会いだけでなく,予期せぬ離別も経験した年だと語られています.[5] 生まれて死ぬという繰り返し,その中にいるからこそ出会いも別れも経験する.虚無的な考え方にも感じられますが,そこから目を逸らさず自己の卑小さを認めつつ,世界の美しさを享受しその中で生きようとする勇気こそ学ぶべき点なのだろうと感じられました.

以上の様に2017年のトピックを見てきましたが,この様に理想・夢・期待というテーマを前面に出しつつ”旅”や”出会いと別れ”が組み合わさった楽曲があります.それは2017年4月に発表されたAqoursの『HAPPY PARTY TRAIN』です.この楽曲はやや切なさを感じるメロディーに旅,出会い,別れを感じさせる詞が相まっており,潜在的には虚無的な要素も感じられます.一方で,それで完結させずに,人生や旅の行先(つまり世界)を美しいものと捉えており,畑さんの人生観を通して見ると興味深さが更に増されます.

2018年

2017年に畑さんは"シーモアさんと,大人のための人生入門"の一節に出会い,”音楽家としての自己”に対して問題提起をされていた事を先に紹介しました.実はその一節に出会って一週間後にはご自身の中で回答が得られていた事を2018年のブログでは公表されています.

私は果てしない充実感という言葉に,妄想をふくらませ過ぎていました.息もできない強烈な恋の情熱に似たものを想像していたのです.その妄想を抑えて淡々と内部を掘り下げた時,一体化していると実感でき,私なりの充実感に満たされていることに気づきました.青い鳥はここにいた,まさに物語通りの結末です.[6]

”果てしない充実感”という言葉にはその深さが見えないという点で受け取り手が試されている様な感覚にもなります.”果てしない”とはどの位だろうか,と答えのない疑問は生じつつも,それでもやはり真摯に向き合ったものに対しては充足感が感じられるものなのだろうと思います.畑さんは「いつでも自分の胸の中に答えがあると,わかっていても雑念にとらわれ見失いがちな卑小な自分」と続けられます.[6] ”雑念にとらわれ見失いがち”と仰いますが,裏を返せば”果てしない”という言葉に妥協を許さない克己創造を感じられるものでもあります.

さて,ここで登場した”青い鳥”はモーリス・メーテルリンク作の『青い鳥』で間違いないでしょう.そして,『青い鳥』とラブライブ!サンシャイン‼は密接な関係にある事が示唆されています.2017年12月に結末を迎えたTVアニメ ラブライブ!サンシャイン‼2期はドーム会場で青い羽根を散りばめ,優勝旗を手にしてなお”輝き”とは何なのかに悩むAqoursの姿があります.TVアニメの最終話で登場し,2018年1月に発売された『WONDERFUL STORIES』は『青い鳥』および畑さんの"シーモアさんと,大人のための人生入門"の一節に対する回答が組み込まれた様な曲になっています.時期を考えると,『WONDERFUL STORIES』を作詞をされたのは,丁度畑さんがご自身との対話を行い,"シーモアさんと,大人のための人生入門"の一節の回答を苦慮されていた頃かと思われます.畑さんが自問自答された内容の一部が作詞家としての作品にも反映されているかの様で,面白さを感じます.

2019年

先にも書いた通り,畑さんは”旅”をとても大切にされています.2018年以前までは”旅”という言葉を多く用いられていましたが,2019年の特徴として”冒険”という言葉が頻用されているという点があります.[7-9] ”冒険”を畑さんは「未知な場所にて清新なときめきを味わうこと」と定義づけられています.[7] 「常に微熱に浮かされたような状態を,自分の中から消したくない」[7] ,”旅”や”冒険”をときめきなどの素敵な感情を保つための手段として位置づけられており,”未知な場所”である事がその感情に対してスパイスになっている事が感じ取れます.

未知の冒険をテーマにした楽曲として,2019年9月に発売された『未体験HORIZON』があります.この楽曲は曲中の歌詞で”想いをトキメキを”と登場する様に,畑さんが「未知な場所にて清新なときめきを味わうこと」と定義された”冒険”そのものを表現したかの様な詞になっています.更に,水平線(HORIZON)が”夢”や”未来”などを暗喩する言葉として登場しているのみならず,海,月,太陽といった具体的な情景も詞中に現れており,単なる比喩表現ではなく,未知の風景と遭遇するという点にも大切な想いが込められているかの様に感じます.

2020年

2019年10月,12月と2回に渡って畑さんはオンラインで”AKI HATA STUDIO LIVE”を開催されています.このライブではMCを挟まれつつ,シンガーソングライターとして畑さんが作曲された曲が披露されました.ライブの意図について畑さんは「帰る場所を持つ事」であると位置づけられていました.この言葉は”孤独”観について触れられた際に仰った言葉です.

上記のライブ内で畑さんは「私達は人との繋がりを求めがちだけれど,その結果逆に強い繋がりというものを失ってしまう.だから,もっともっと孤独にならなくてはいけないのではないか.」とコメントされています.この”孤独”という言葉については,私も以前の記事でテーマとして取り組ませていただきました.[10] 私は,文字通りの”一人きり”という意味よりも,”自分に正直である,自分の大好きなものを大切にする.”といった意味合いも込められているものだと考えています.つまり,”AKI HATA STUDIO LIVE”で掲げられた”帰る場所”は,ご自身の理想を追い求めるための環境を,単なる比喩としてだけでなく実際的に獲得するために登場した言葉なのではないかと思います.この様な”帰る場所”に対する想いもあってか,畑さんは2020年に既存曲のセルフカバーやMV作成などを精力的にされています.

この”帰る場所”というテーマは2020年8月に発売されたAqoursの『JIMO-AI Dash!』にも反映されています.この楽曲は”地元”という場所を文字通り”帰る場所”とした曲ですが,曲中に「帰る場所をココロに持とう」とある様に,実際の土地以外に概念的な”帰る場所”についても意味合いが込められている様に感じられます.

さて,ここまででは,2020年までに畑さんが各年で考えられていた事と,ラブライブ!作品における関係性を見てきました.では,2021年はどうでしょうか,次項では2021年の畑さんとラブライブ!作品の関係性について検討していきたいと思います.

2021年のテーマ

2021年に畑さんが注目されたテーマとして”痛みとの共存”があります.畑さんは以前,”世界の終わり”というテーマについて取り組まれていました.2017年に「毀レ世カイ終ワレ」を作られた事でこのテーマが完結した様に感じられ[4, 12] ,何を表現したいのかを模索されていたところに,次のテーマとして選ばれたのが”痛みとの共存”です.[11] ”痛みとの共存”について取り組んだものとして,2021年8月13日に『蜿蜒 on and on and』という曲が発表されました.畑さんは各種のインタビューでこの楽曲の内容について触れられています.

自分の内面と向きあうのは,見たくない自分の姿を見ることにもなる.そこにあるのは,けっしていいことばかりじゃない.日々,いろんなダークな感情を巡らせているように,その姿と対峙することで”こんな自分情けなくて嫌だな”とも思うし,向きあうことがきつくて痛みも感じます.でも,そこへ痛みを感じるのは,自分が生きてるということじゃないですか.”胸が痛いな”と思えるのは,”今,自分は生きてるんだな”と思えるのと同じこと.(中略)その痛みをごまかすことなく,”生きること自体が痛みあることなんだ”.そういう痛みの正体を確かめるように書いた曲になります.[13]

痛みとの対面は,現状に満足してとどまらず常に変化していこうと努める畑さんの姿勢を反映したものの様に感じられます.自身の”痛み”に打ち克って自分を変えていこうとする,ラブライブ!とも関連する言葉で言い換えると”克己創造”とも言えるのではないかと思います.この”克己創造”という言葉は浦の星女学院や,そのモチーフとなった長井崎中学校の校訓とされている言葉でもあり,ラブライブ!サンシャイン‼のTVアニメの内容はこの言葉を想起させる様な内容となっていました.では,2021年の畑さんのテーマである”痛みとの共存”はラブライブ!サンシャイン‼やその他ラブライブ!シリーズ作品でも登場したテーマなのでしょうか.

この疑問について,私は「間接的には関与している可能性がある」と考えていますが,それ以上に「2021年に関しては,別のキーワードが媒介し畑さんの世界とラブライブ!を繋げている」のではないかと思っています.そのキーワードこそ,冒頭より温めていた”星”です.次項では,2021年において”星”が畑さんとラブライブ!を繋ぎ合わせた可能性について検討していきたいと思います.

星に願うまえに

2021年はタイトルに”星”の名を冠するラブライブ!スーパースター‼の活動が本格的になった年です.既に数多くの楽曲がリリースされていますが,思い返すと1stシングルである『始まりは君の空』も今年発表された楽曲であり,2021年という年の密度の濃さには驚嘆させられます.Liella!のスタートとも言えるこの曲は畑亜貴さんによって作詞されました.そんな『始まりは君の空』の曲中にも”星”は登場します.

星に願うまえに 語りあってみようよ (『始まりは君の空』;Liella!)

『始まりは君の空』では,サビ中の印象的な場面で”星”が登場しています.その一方で,この歌詞は”星”が登場したは良いものの,「星に願うまえに」と結局は”星”を頼っておらず一見”星”にフォーカスが置かれていない様な印象も受け,一体ここで言う”星”は何なのかという疑問を残すものとなっています.そんな疑問を残したまま数月が経ち,8月になって発表されたのが先にご紹介した『蜿蜒 on and on and』です.タイトルでは明示されていませんが,『蜿蜒 on and on and』の中でも様々な景色が登場し,そんな中で”星”も登場しています.

星に願うまえに出来ることしよう (『蜿蜒 on and on and』;畑亜貴

『蜿蜒 on and on and』でも,『始まりは君の空』と同じ「星に願うまえに」というフレーズが登場します.同じ言葉であるだけでなく,”まえに”で”前に”と漢字が使われる事なく,表記も同じになっている点にも面白さを感じます.この『蜿蜒 on and on and』で登場する星について,畑さんは2021年9月18日放送の”NHK アニソン・アカデミー”でコメントをされています.

「なんか,死んで星になって輝こうなんて私図々しいなと思っちゃって.だったら今頑張れよ私って.」 (「アニソン・アカデミー」NHK-FM. 2021.09.18)

このコメントを踏まえた上で『始まりは君の空』や『蜿蜒 on and on and』で登場した「星に願うまえに」を振り返ってみると,言葉通りの”星にお願いする前に”,”星に頼る前に”という意味だけでなく,”簡単に星になれると思ってはいけない”と戒めも込められている様にも感じてきます.また,このコメントで注目すべき点は”今輝く”事に重点が置かれているという点です.”今輝く”事は”アイドルの輝き”にも通じるところがあり,それについても畑さんは触れられています.

私もアイドルの輝きが好きなんですけど,アイドルが引退するというのは,永遠を残してくれてるということなんですよ.その存在が遠ざかってしまうのでその時は悲しいですけど,アイドルが輝いていた永遠だけが残るんですよ.それを素晴らしいことだと私は思っているので.(中略)それはそれでとても悲しいことなんですけど,永遠を一瞬感じさせてくれるところがあれば.[14]

アイドルがまさに今輝いて,その輝きがその時だけでなくその後も概念的な永遠の輝きとして残っていく事を素敵な事だと評価されているのでしょう.このコメントをされた後,畑さんは「今ちょっと心が『ラブライブ!』に引っ張られましたけど.」[14] と続けられています.

以上の様に,Liella!の『始まりは君の空』と『蜿蜒 on and on and』で共通して登場する「星に願うまえに」というフレーズについて,これらが共通した理念から生じた言葉であり,その背景にはラブライブ!でも描かれている様な”今を輝く”というコンセプトが組み込まれているという可能性が考慮されるものと思われます.では,この”星”とは一体何なのでしょうか.星になる,星になって輝くという言葉が使われている通り,ある種の目標を意味するものではあると思われますが,”星”は終始比喩表現として用いられており,その内容について明言されたインタビューや記事などはありませんでした.そこで,次のテーマとして”星”とは具体的に何なのかを検討していきたいと思います.

2つの星

Liella!の楽曲で”星”が直接的に登場するものとして『Tiny Stars』が挙げられます.この曲は宮嶋淳子さん作詞ですが,Liella!における”星”を考える上ではとても重要な曲だと思われます.まず,タイトルで”Stars”と複数形が用いられており,単一の星が対象となっている訳ではない事が分かります.この曲はラブライブ!スーパースター‼の中でも珍しいデュエット曲であり,この複数形の意味合いとして歌い手2人は想定されているのだろうと思われます.それだけでなく,この曲の面白い点として,曲の冒頭で既に個数として複数の星というだけでなく,異なる意味合いの星が想起される点があります.

駆け抜けるシューティングスター 

追いかけて星になる (『Tiny Stars』;澁谷かのん・唐可可)

曲冒頭のこの一節には面白いギミックが仕掛けられている様にも感じます.それは,助詞が省略されているという点にあります.曲が始まり最初に登場する”シューティングスター”という言葉はインパクトを与え,一見この言葉が主語であるかの様に感じさせます.この解釈に従うと,この一節は「駆け抜けるシューティングスター が 追いかけて 星になる」という意味合いになりますが,この解釈にはいくつか違和感が伴います.それは,”スターが星になる”という第2文型の文章になっており,「星が星になる」というtautologyとなっている点です.また,”追いかけて”というのが何を追いかけているのかが不明な点も疑問として残ります.”追いかける”は多くの場合では目的語を伴う他動詞として用いられる言葉であり,”シューティングスター”を主語として考えると目的語が登場しない文章になってしまうという点も解釈を難しくするところです.そこで,見方を変えて”シューティングスター”は主語ではないと考えてみるといかがでしょうか.「駆け抜けるシューティングスター を 追いかけて 星になる」と考えると,”追いかける”という動詞に対して”シューティングスター”という目的語が設定される事になります.この様に考えると,この文章が主語を持たなくなってしまうという別の問題点が生じてしまいますが,一般論として既出の明白な主語は省略される場合もあるため,文章としては成り立っています.この一節は曲冒頭のものであり,一見既知の主語は存在しない様にも感じられますが,歌い手(澁谷かのんさんと唐可可さん)は既に登場しており,主語になる可能性があります.この様に考えると,この一節では”シューティングスター”と”星(わたし)”の2つの星が簡潔なフレーズで登場している事になります.つまり,この一節の面白さは,助詞を省略する事によって解釈を難しくさせ,2通りの解釈を出来る様にしている,更に後者の解釈では2つの”星”が提示されているという点にあると感じております.

この曲は「ひとすじの流れ星 キラキラまぶしい姿に 勇気をもらったよ」と続きます.この一節からも,”シューティングスター(流れ星)”が勇気をくれる,歌い手とは異なる存在である事が示唆されます.更に「いつかあんな風に なれる日がくるかもしれない」と続き,歌い手が”星にいなれるかもしれない”と希望を持っている事も分かります.こうして見返してみると,この曲の1番Aメロでは,曲冒頭のフレーズのうち後者の解釈が反映されており,全く同じ内容が述べられているという事に気付きます.

ここまでの話を整理すると,『Tiny Stars』では”勇気をくれるシューティングスター”と”いつか星になりたいと願う歌い手”の2種類の”星”が対比的に登場しているという事になります.この様な2種類の”星”の関係はラブライブ!でも既存のテーマとしてあります.それは,先にも触れた『届かない星だとしても』です.『届かない星だとしても』では,”届かない星”に対して”手を伸ばす歌い手”が描かれており,『Tiny Stars』と対応関係にある事が分かります.『届かない星だとしても』に関わるテーマとして”無力な自分との対峙”を挙げましたが,『Tiny Stars』や『届かない星だとしても』はまさしく,届かない星に対して苦心する無力な自分を鼓舞する作品であるとも言えます.

まとめると,2種類の”星”として,目標となる”シューティングスター/届かない星”と,それに対して手を伸ばす”無力な星前駆体”を挙げる事が出来ました.では,先に出た「星に願うまえに」というフレーズにおいては,どちらの意味で用いられているのでしょうか.この言葉は”星に”というように,”星”を自分とは異なる対象として見ており,それを踏まえると前者の”シューティングスター/届かない星”と合致する様にも思われます.一方で,畑さんがインタビューで「星になって輝こう」という言葉を用いられていた事を考えると,”星”はやはり自分がなる対象としても設定されている様に感じられます.つまり,「星に願うまえに」という言葉は,前者の解釈だと「届かない星を目標として願い邁進する前に」という意味となり,後者の解釈だと「自分が星になりたいと願う前に」という意味と取れます.どちらの解釈でも意味は通り,どちらが正しいとは言い切れるものではないのでしょう.最終項では,この双方の可能性を念頭に置いた上で,”星”が示唆するものが何なのか最終検討をしていきたいと思います.

”星”

まず,”シューティングスター/届かない星”を考えます.こちらについてはこれまでの議論でも出てきた通り,「目標の対象」という言葉がピッタリの様に感じます.『届かない星だとしても』を歌うAqoursにせよ,『Tiny Stars』を歌うLiella!にせよ,先に活動していたスクールアイドルがあり,それを魅力的な対象として捉えたからこそ,これらの歌が生まれたのでしょう.ここでの「目標の対象」というのは,具体的な対象は勿論,漠然としたイメージも含めてしまっても議論が成り立つと思われます.例えば,虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会中須かすみさんは”かわいいスクールアイドル”を大きな目標として掲げていますが,具体的な”かわいいスクールアイドル”像とは何なのか,その説明は非常に困難を極めます.”かわいいスクールアイドル”というのは,具体的な対象に対する目標というよりも,より漠然とした概念的な目標なのでしょう.その目標を遠い目標,届かない星と捉えて考えても面白い様に感じます.

では,次に”無力な星前駆体”が目指す”星”とは何なのかを考えてみましょう.こちらは回答となりそうな言葉が出ておらず,かなりの難問です.”シューティングスター/届かない星”と同じ”星”を指しているのではないかと考える事も出来ますが,それでは自分が目標としたものと全く同じものを目指しているのかという疑問が残ります.つまり,前駆者の模倣に陥って創造性を失う可能性があるという事であり,その状態が果たして”輝く星”であると言えるのかというと自信を持って首肯する事は出来ません.

この問に取り組むにあたり重要なポイントとして,視点の違いがあるのではないかと私は思います.”シューティングスター/届かない星”について検討する際,「目標の対象」という言葉を用いましたが,これはあくまで一人称視点のものです.たとえば,自分が”シューティングスター/届かない星”だと思っている人から見て,その人自身はどの様に見えているのでしょうか.間違いなく,一人称視点と同じ様には見えていないでしょうし,この様な場合に”星”であると思う人はかなり限られるでしょう.潜在的に,自分の視点からは,自分を星だと思う事は困難であるのでしょう.これを踏まえると,”無力な星前駆体(自分)”が”星”になろうとするという事の困難さが際立ちます.

では,そこから更に視点を変えてみるとどうでしょうか.『Tiny Stars』のサビは「止まらない 止まれないよ まだ ちいさくても」と続きます.”ちいさくても”という言葉が登場する様に,この文の主語は”Tiny Stars=(自分)”だと思われます.この文章の面白い点は,”止まらない 止まれない”という点です.これは自覚的には単に止まらずに進むという事で終わりますが,他覚的に見ると”駆け抜けている”,つまり,曲冒頭で登場した”駆け抜けるStars”に似た様にも見えるでしょう.ここから分かる事としては,自分では”星”になれていないと感じていても,他者から見たら”星”に見える事もあるという事です.

この様に考えると,他者から”星”だとみなされる事はあっても,妥協を許さない限り自分を”星”だとみなす事は出来ない様にも思われます.”無力な星前駆体”というものは,もしかしたら実現不可能な空想上のものなのかもしれません.原理的に自分は自分を”星”だとみなす事は出来ないと感じつつ,”星”を目指して努力する事にはとても勇気がいりますが,畑さんの言う”痛みとの共存”にはこの意味も込められている様に思います.つまり,”星”になれないという”痛み”を理解しながらも努力する,それがもしかしたら他者から見ると”星”に見えるのかもしれませんね.

おわりに

この「”星”とは何なのか」という問いは人によって回答が異なる問だと思っています.そのため,最後は漠然とした議論で締めさせていただきました.この記事は,新しい視点を共有するためのものというよりも,考え方や議論のきっかけが生まれて欲しいという想いに主眼を置いており,その一助となったのであれば幸甚でございます.

私個人としては,畑さんの今後の活動がやはり楽しみで,今後どの様なものを享受でき,どの様に畑さんの世界観が広がっていくのかに期待が溢れています.その中で,今回提起した”星”やその他の話題についてもアップデートがあるかもしれませんね,そういう一時が来るかもしれないのも楽しみの一つです.

ここまでお付き合いくださりありがとうございました,どうぞ良いお年を.

参照

[1] 「2016年の始まり。」AKI HATA Official website. Blog, 2016.01.01

https://akihata.jp/blog/2636/

[2] 「8.1.3.の謎を解明する人生」AKI HATA Official website. Blog, 2016.08.13

https://akihata.jp/blog/3210/

[3] 「2016年とは。」AKI HATA Official website. Blog, 2016.12.31

https://akihata.jp/blog/11916/

[4] 「8.1.3.はそもそも謎であるのか?と考え直す人生」AKI HATA Official website. Blog, 2017.08.13

https://akihata.jp/blog/19367/

[5] 「2017年とは。」AKI HATA Official website. Blog, 2017.12.31

https://akihata.jp/blog/20789/

[6] 「8.1.3.に消滅と誕生を繰り返す人生」AKI HATA Official website. Blog, 2018.08.13

https://akihata.jp/blog/24884/

[7] 「2018年とは。」AKI HATA Official website. Blog, 2018.12.31

https://akihata.jp/blog/25499/

[8] 「2019年の始まり。」AKI HATA Official website. Blog, 2019.01.03

https://akihata.jp/blog/25599/

[9] 「2019年とは。」AKI HATA Official website. Blog, 2019.12.31

https://akihata.jp/blog/27674/

[10] ”孤独”の意味を考える - 言語化研究所 音ノ木坂支部

[11] 「8.1.3. 痛みは日々心を濡らす人生」AKI HATA Official website. Blog, 2021.08.13

https://akihata.jp/blog/40861/

[12] 「畑亜貴「蜿蜒 on and on and」インタビュー|あふれ出る魂の叫びとは?シンガーソングライター・畑亜貴の思考に迫る」音楽ナタリー. 2021.08.13

https://natalie.mu/music/pp/hataaki

[13] 「畑亜貴、痛みは日々心を濡らす 私が私である限り。その言葉の真意とは…。」UtaTen. 2021.08.13

https://utaten.com/specialArticle/index/6610

[14] 「畑 亜貴、サブスク解禁&新曲リリース記念ロングインタビュー「蜿蜒 on and on and」と「砂海パラソル」でこだわった”純度の高さ”とは」 SPICE. 2021.08.13

https://spice.eplus.jp/articles/291188

”孤独”の意味を考える

序文

 2019年が終わろうとしています。今年もラブライブ!に支えられ、たくさんの方に支えられ、大変有意義で楽しい一年を過ごす事ができました。ありがとうございます。

 ラブライブ!においても、新しい視点を得る事ができた、とても嬉しい年となりました。その締めくくりの代わりとして、最近考えさせられたテーマについて取り組みたいと思い、本記事とさせていただきました。

 

2019年の思い出

 思い返してみると、2019年は沼津で初日を迎えました。年越しを、そして年始をラブライブ!に囲まれて過ごす事ができ、大変有難い思い出となっております。

 ラブライブ!サンシャイン‼ The School Idol Movie Over the Rainbowが公開されたのも2019年の一月でした。この映画の祈願として神田明神に絵馬が設置されましたが、今なおも絵馬は健在で神田明神に行く度に見掛け、とても懐かしい気分になります。

 それからも楽しみに尽きず、また新しい出会いをたくさん頂けた年となりましたが、本題から外れてしまうので最近の話に移りたいと思います。

 ここ数か月の事としてはラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARSのリリースおよび虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の活動は大きなニュースでした。待望のスクールアイドルフェスティバル ALL STARSはストーリーがとても濃い内容となっており、大変楽しませていただいております。また、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の活動としても、校内マッチングフェスティバル以降は様々なフェスにもご出演され、そして今月はワンマン1stライブもいよいよ開催されました。今回のライブは「大好きを咲かせる」という想いが強く感じられ、大変魅了されました。

 そして、もう一つ最近衝撃的だったものとしてAqours各ユニットによるラブライブ!スクールアイドルフェスティバル コラボシングルのリリースがあります。今までのユニットシングルとは一味変わった特色のある楽曲が多く、とても楽しませていただいています。

 前置きが長くなりましたが、今回はAqoursユニット スクフェス コラボシングルと虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会について主に扱いたいと思います。まず次章では、Aqours各ユニットのスクフェス コラボシングルについての感想を述べつつ、本記事での問題提起をしたいと思います。

ユニットシングルを聴いて

 先日、各ユニットからスクフェスコラボシングルの『New Romantic Sailors』『Amazing Travel DNA』『Braveheart Coater』がそれぞれリリースされました。3ユニット計9曲を聴いて感じた事としては、「各ユニットの特色を生かしつつ、畑亜貴さんの趣味が入った様な内容になっている」という事でした。

 それを感じた最初のきっかけはシングルのタイトルが発表され『Amazing Travel DNA』という言葉を聞いた時でした。非常に”人為的”な言葉だと感じます。

 というのも、わざわざ”DNA”とつけなくても『Amazing Travel』だけでも曲のタイトルとして成立するからです。DNAとは”デオキシリボ核酸”の事で良いとは思いますが、そのDNAを曲のテーマである”冒険”に組み込ませる必要があったのだろうか。

 これは実際に曲がリリースされて初めて分かった事ですが、曲中全体を通しても一箇所でしかDNAに関する記述がありません。”DNA”でなくても同じリズムの言葉で冒険を示唆する言葉であれば成立する様にも感じますし、そもそも一箇所でしか隠喩を用いていないのであれば、比喩を使う必要さえなかったのではないかとも感じます。

 では何故数多ある言葉の中から”DNA”が選ばれたのか、その問いの答えこそ「畑亜貴さんの趣味を取り入れたから」ではないかと私は考えております。以前の記事で「言葉による存在の開始」の話がありましたが、畑さんにとって今年 ”存在が開始”したものの象徴として”DNA”があったのではないかと思っております。畑さんが今年ご興味を持たれた言葉の一つに”synthetic biology”があります。*1 synthetic biology(合成生物学)とは生物・化学・工学などを組み合わせた様な学問ですが、その中の重要な一領域としてDNAをはじめとした遺伝子の研究があります。

 synthetic biologyとの出会いが畑さんにとってどの様な意味を持つものであったのかについては想像する事しかできません。しかし、話を伺う限りではある種人生のスパイスとでもなる様な刺激であったのであろうと推察しております。以上を踏まえると、『Amazing Travel DNA』はsynthetic biologyとの出会いと”冒険”というテーマを両立させつつAZALEAらしさを体現したかの様な非常に面白い曲の様にも思われます。

 この事を前提として改めて各楽曲を聴いて見ると、それぞれの楽曲についても”畑さんらしさ”を出しつつユニットの特色が生かされているのではないかと感じられます。今回のユニットシングルは、いつも以上に”趣味を出した”様な作品なのではないかというのが感想です。

 若干脱線しましたが、本題に戻ります。今回扱いたい内容はユニットシングルの中でも『Braveheart Coater』のカップリング曲である『コドク・テレポート』について、更に言うと、本記事のタイトルにしている通り”孤独”についてです。『コドク・テレポート』は、曲全体としては大事な人に会いたいという内容になっていますが、そんな中でも「コドクな時間も大事」であると”孤独”を必ずしも寂しいだけのものとは捉えていない様に感じます。

 ”孤独”はラブライブ!が掲げる「みんなで叶える物語」「あなたと叶える物語」とは相反する概念の様に一見思われます。そんな”孤独”が何故今回テーマとして扱われたのか。『コドク・テレポート』を通して、そして畑亜貴さんのお言葉を通して、”孤独”について考えたいと思います。

「孤独」

 まず、コドクの漢字変換としては私の知る限り「孤独」と「蠱毒(蟲毒)」の二つですが、『コドク・テレポート』の文脈で呪術の話はないでしょうし、「孤独」の話に限定させていただきます。「孤独」の辞書的な意味としては「ひとりぼっちのこと。頼りになる人がいない状態」といったところでしょうか。意味内容からしても、あまり良い印象のある言葉とは思われません。

 その反面、「孤独」という言葉は現代社会においても様々な社会問題を通してしばしば耳にする言葉です。興味深いものの一つとして「孤独」を通じた健康格差問題があります。Holt-Lunstadらの研究では「孤独」と健康の関連について調べられており、社会的孤独は喫煙、肥満、運動不足といった一般的な危険因子と同等レベルの健康リスクを呈する事が示されています。*2 「孤独」が健康に与える影響として、ストレス緩和効果や社会活動が増える事による間接的健康増進効果、社会貢献に関与する事による精神的充足感などが考察されていますが、なにはともあれバイアスを取り除いた研究においても「孤独」と健康の関連が示されている事には驚きを感じます。

 この様に「孤独」は良い印象はあまり持たれないだけでなく、実際のデータとしてもマイナス効果が表れている事が分かります。では、そんな「孤独」について畑さんはどの様に表現をされているのか、次章から考えていきたいと思います。

”孤独” 

 畑さんご自身の作品の中にも”孤独”をモチーフにしたものがいくつかあります。”孤独”を扱ったものの一つとして『毀レ世カイ終ワレ』があります。今年のLantis祭でも披露されている畑さんの代表作です。

 本作品では曲の冒頭から「私以上の孤独はこの世にない」という強烈な言葉から始まっており、まさしく”孤独”を扱った曲と言えるでしょう。開始から「私が一番”孤独”だ」と宣言しており大変インパクトがあります。この「私以上の孤独はない」という命題において”私”が何を意味するのか、”孤独”が何を意味するのかは非常に重要な問題です。なぜなら、これは音楽の歌詞であり、数多いる聴き手に対して矛盾なく提示できる命題であるべきだからです。

 この問題だけを考えるのは非常に難しいため、もう一つの”孤独”をテーマとした作品に注目したいと思います。その作品とは、最近リリースされた『Motto-Motto』という曲です。こちらの曲は「Motto-Motto 孤独にならなきゃ」という一文から始まり、孤独を否定しないどころか、自ら孤独になろうという意気込みを感じます。

 この曲は今年の10月26日に行われた「AKI HATA STUDIO LIVE Vol.01」で披露され、その際にこの曲の孤独感について畑さんご自身が触れられていました。

「私達は人との繋がりを求めがちだけれど、その結果逆に強い繋がりというものを失ってしまう。だから、もっともっと孤独にならなくてはいけないのではないか。」*3

 この様な意味内容であったと記憶しております。また、『Motto-Motto』について、以前にご紹介させていただいた畑さんのnote. においても曲紹介がされております。

もっと孤独になって、外界に囚われず自分のやりたいことを突き詰めて、理想に手を伸ばしたい…。

時間は有限…本当に望むことを為していかないと、という決意表明

     note. たたらじ/感情言語化研究所 「もっともっと孤独になんなきゃ。」 より

 多少脱線してしまいますが、この話を見て私は『徒然草 第百八十八段』の法師になるために乗馬や早歌を学んだ者の話を思い浮かべました。triage(トリアージ)という言葉がありますが、この言葉は本来であれば自分が最も望む事に対して適応すべき言葉なのであろうと思います。

一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中、一時の中にも、数多の事の来らん中に、少しも益の勝らん事を営みて、その外をば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。 (中略)

一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。

       『徒然草 第百八十八段』 より

 さて、”孤独”の話に戻ります。『Motto-Motto』で表現されている畑さんの”孤独”は「自分のやりたい事を突き詰めるための手段」として扱われていると思います。では、この”孤独”は一般的な「孤独」が持つ様な「ひとりぼっち」という意味合いを併せ持っているのでしょうか。

孤独の意味 

 畑さんの人間関係は決して「ひとりぼっち」なものとは思われません。畑さんは様々な分野の方と広く交友を持たれており、そのご様子は「孤独」なものではないと感じられます。しかし、畑さんの場合特殊な点としては、”人間関係の形成が先行している訳ではない”という事だと思います。

 私達の生活において”人間関係形成の先行”はある種避けられない場合の方が寧ろ多いと思います。小児~青年期では学校というコミュニティーに属し、成人してからは仕事・会社内などでの人間関係というものは避けられません。ほとんどの場合において私達は出会いを選べませんし、出会いを取捨選択していては成り立たない事は多くあります。

 そんな中、畑さんは不可避な力によって形成された関係よりも、ご自身で選んだ関係性を大切にされている様に思われます。それは人間関係形成の前に”自分の望む事”を先行させているからだと思います。先の章で”孤独”が「自分のやりたい事を突き詰めるための手段」として扱われているという話をしましたが、”自分のやりたい事”が先行し原理となっている様に思います。その関係性は自然な人間生活で形成されたものではないため一見とらえどころがない様にも思われますが、一つの原理をもとにして形成されたという事はいつまでたっても確立された定理として形成され強固な関係性を築かれているのだと感じます。

 以上をまとめると、”孤独”とは人間関係を先行させず”自分のやりたい事”を先行させる事、つまり”自分の大好きを大切にする事”として捉えられているのではないかと思います。これは、人間関係を疎かにしているという事ではなく、「万事に換へずしては、一の大事成るべからず。」という事なのだと思います。そして、これこそが「コドクな時間も大事」と言いつつ「会いたい病」の両立なのだと感じます。

 先日、たまたま使用したお手洗いの壁紙にこの様な言葉が書かれていました。

”True love doesn't mean being inseparable; it means being separated and nothing changes.”

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 この言葉はまさに畑さんが「AKI HATA STUDIO LIVE Vol.01」で仰っていた事と類似内容ですし、更に拡張して考えるとラブライブ!サンシャイン‼ The School Idol Movie Over the Rainbowのテーマの一つでもあります。”孤独”を恐れず"separated and nothing changes"な関係にこそ自分自身の深淵を投影させる事ができるのでしょう。

 私には中学高校時代からの旧友が数人いるのですが、大学以降は全員専門分野が異なり完全に違う人生を歩んでいます。それでも、一年に2・3回程は会う仲で、"separated and nothing changes"な関係だと感じております。つい先日にも忘年会を行ったのですが、久々に会っても尚お互いの距離は遠くなる事はなく「何のために生きているんだろう」「今の世の中で我々が考えるべき事は何なのだろう」といった疑問を真剣に議論し合える大変ありがたい親友を持ったと感じております。”自分の望み”を先行させても尚成り立つ関係性だからこそ、いつまで経っても朽ちる事はないし、この先も延々とこの様なとらえどころのない話を仲良くできるのだろうと感謝しております。

 そしてもう一つ感じる事としては、師として仰げる人の言葉を直に耳にする事のしやすい貴重な時代に生きているという事です。『徒然草 第百八十八段』の最後は以下の様な節で締めくくられています。

人の数多ありける中にて、或者、「ますほの薄、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺の聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゝしく、有難う覚ゆれ。

        『徒然草 第百八十八段』 より

 現代は室町時代の様に、師の言葉を頂くために雨風の中を抜ける必要はありません。寧ろ、今は自分が望む望まないに関わらず、毎日多量の情報を耳にしなければなりません。そんな環境だからこそ、今度は師とする人の言葉を貪欲に摂取する姿勢が大事になっているとも感じます。

孤独と大好きの関係 

 自分のやりたい事を突き詰めた結果は「孤独」ではなく”孤独”に至るという話をさせていただきました。人間関係の話を抜きにしても、自分のやりたい事を突き詰めるという行為は実際に他の人に頼る事のできない一人の戦いであると思います。というのも、自分が感じた想いを帰納的に突き詰めて帰着させ、自分自身が納得のいく形で一般化させる必要があるからです。

 かなり前の話に戻りますが、「私以上の孤独はない」とはこういう事を意味しているのではないかと思っています。つまり”私”自身を突き詰めるという行為こそ孤独な行為なのではないかという事です。『後漢書楊震伝 に「天知る、神知る、我知る、子知る」という言葉があります。この言葉は、悪事は隠しきれないという意味の故事として用いられますが、その隠しきれないものの中に”我”が入っている事には非常に重い意味を感じます。

 自分自身の感情には嘘をつけないから真直ぐ向き合わないといけない、その為に自分の想いの基の原因は何なのかを帰納的に見つけなくてはいけない。自分自身にしか出来ない作業であるにも関わらず、そこには嘘をつく事ができずに”答え”が出るまで頭を悩ませないといけない。自分にとっての原理を最終的に見つけ出せるのは自分だけ、自分の感情と向き合う事の孤独さを実感します。

 しかし、特に”大好き”という感情においてはこの営みは欠かすべきではないとも思います。というのも、原理に裏打ちされていない感情は異なるthesisの登場によって容易にその意味を変え、結果的に自分の”大好き”が何なのか分からないままになり得るからです。

大好きが咲いている

 先日の「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 First Live "with You"」は大変感じるところの多いライブでした。”大好きが咲いている” そう歌われたあのライブはその言葉通りの空間を実現していた様に感じます。ここで注意したいのが、あのライブで見る事が出来たのは”大好きが咲いた花”であって、その元の種や蕾は別の場所にあるかもしれないという事です。

 当ライブで印象的だった事の一つに 楠木ともり さんのMCがあると思います。

「自分の大好きを大切に 他の人の大好きを大切に」

 私はこれを同時に目指す為に必要な事こそ”大好きの帰納化”であると思っています。”大好き”という感情は知らず知らずの内に抱いている事も多いものではありますが、あくまでこの感情は結果でしかありません。仮に自分が実感していなかったとしても、実際にはこの感情に至るまでにその根拠となった前提が各自の中である筈です。自分の大好きを帰納的に遡り、根源的な自分の理念を見つけようとする事、それこそが自分の大好きを大切にする事、他の人の大好きを大切にする事に繋がると思っています。というのも、確固たる公理から導かれる定理はいつでも変わらない結論を導き出し、各自の中で一貫性のある大好きを実現させるからです。

 以前、友達から”オタク ナショナリズム”という言葉を聞きました。ナショナリズムとは政治の言葉では国家・民族単位での思想の統一化といった意味合いです。そのナショナリズムと類似した現象がオタクの世界にもあるのではないか。

 大変興味深い意見であり、確かにある種の”オタク ナショナリズム”は実際に現状として存在する様に思います。「この表現の解釈については~~~という意見が大多数だ」「キャストが~~~と言っていたからここはこうだ」といった固定観念化がその一種でしょうか。様々な次元に”オタク ナショナリズム”は潜んでいる様に思いますが、とりわけ今回のテーマである”大好き”という感情に対して”オタク ナショナリズム”が適応される場合には危うさを感じます。

 「自分の大好きを大切に 他の人の大好きを大切に」という言葉は人によって”大好き”が違うというdiversityを前提にしている言葉であるとも言えます。これはある種当たり前の事で、帰納化された”大好き”が人によって異なるという話でもあります。”オタク ナショナリズム”という考え方はそのdiversityに目を瞑り、感情の帰納化を怠った結果なのではないかと思います。

 勿論、一人の人間が何かを追い求めて考える時間など限られています。だからこそ、他の人の”大好き”に対して我々は憧れを抱き、その言葉に触れたいと思うのでしょう。しかし、その際に自分にとっての根源が何なのかを見失わない様にしないといけないという教訓を”オタク ナショナリズム”という言葉から感じます。

大好きが溢れる世界

 ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS ストーリー第9章「せつ菜の試練」は非常に面白い内容でした。「大好きな事をするべき」という中川菜々 さんと「得意な事をするべき」という三船栞子 さんの意見が対立する意見として提示されていました。

 私はこの話の中での三船栞子 さんはとても有難い人物であると感じました。元々、中川菜々 さんはご自分の行動原理ともなる様な大好きの根源を持たれている様に感じます。だからこそ、彼女にとって生徒会はその手段であり、あくまで目的ではなかった筈です。話の中でそれを見失った菜々 さんに対して、帰納化された”大好き”が演繹化できていないと指摘するという事は、同好会のメンバーでは出来なかった事でしょう。「得意な事をするべき」という栞子 さんの理念の是非については議論の余地があると思いますが、各自の行動についてその理念の根源を明確化させようとする彼女の考えは見習うべき姿勢なのだろうと思います。

 その一方で、「大好きが溢れる世界」に対する見方には少し疑問が残りました。話中で剣道が好きだけれど得意ではない人がいたらどうするかという議論があったと思います。私は、この議論の中にこそ”大好き”の帰納化を適用させるべきだったのではないかと思います。

 先述の通り、”大好き”という感情はあくまで結果であり、そこには先行する原理が存在する筈です。「剣道の何が好きなのか。何を思っているのか。何を享受しているのか。」それを明確化させる事が出来ていれば、例え剣道が得意ではなかったとしても貴重な財産となっている筈です。

 三船栞子 さんは、成功体験は力になると仰っていました。私もその通りだと思います。だからこそ、自分の気持ちに向き合う事が出来たという成功体験はかけがえのないものとなると思っています。

 「天知る、神知る、我知る、子知る」

 自分自身を誤魔化す事は絶対に出来ない。だからこそ、”大好き”と向き合いその根源を正確に見つめようとする事は非常に困難であると同時に、lifeworkとして取り組みたいと思える事なのでしょう。

 中川菜々 さんへ、虹ヶ咲学園 生徒会長選挙での一票を投じさせていただき、締めくくりとさせていただきます。

結語

 最後までお付き合いくださりありがとうございました。

 今回の文章は大変難産でした。書きたい内容や自分の思っている事は頭の中では分かっているのに、いざ文章におこそうと思うと難しく、まるで数式を無理矢理言葉に代えているかの様な感覚でした。やはり感情の言語化というのは難しいもので、これからも頭を悩ませる事になりそうです。

 そして、いつも仲良くしてくださっている方々や興味を持ってくださる方々には感謝するばかりです。2019年を無事に終えられました。ありがとうございます。

 2020年になりますが、これからもどうぞ宜しくお願い致します。

*1:当該の話は以前にご紹介させていただいたラジオ内で詳しいお話がありましたので、宜しければ御試聴ください。

*2:Holt-Lunstad, J., T. B. Smith & J. B. Layton (2010) Social relationships and mortality risk: a meta-analytic review. PLoS Med, 7, e1000316.

*3:正確なお言葉を覚えていなくて申し訳ありません。私が覚えている意味内容を記しましたが、誤解がある可能性もございます。正確な記述が出来なかった事をお詫び致します。

概念と呼ばれた貴女を想う

Aqours 5thライブお疲れ様でした。劇場版を主軸としながらも、その根底にあるAqoursの輝きを感じられる、とても感動的なライブでした。Aqours、そしてラブライブ!のこれからが更に楽しみに感じられます。

5thライブに向けて、私は大きく変わりない日常を過ごしていたのですが、そんな中ラブライブ!の見方という意味では大きな転換がありました。それは、ラブライブ!における歌詞・言葉の表現についてです。その感動的な言葉の数々を発信されているのが畑亜貴さんですが、それに対してどの様なattitudeで接していけば良いのかというのが5thライブ前の数か月、私の中で一つの大きな命題として浮上していました。

本記事は、表現者である畑亜貴さんにスポットライトをあて、畑さんによる言葉の表現の在り方を少しでもよりよく知りたいと願い、文章化させていただいたものになります。

 

 

Introduction

本題に入る前に、本記事はどのような方を対象としたものなのか、この記事が何を意図したものなのかに触れつつお話ししたいと思います。(本題と直接的に関係しないので、この章は読み飛ばし可です。)

ラブライブ!には色々な楽しみ方がありますが、その一つに歌詞の反芻があると思います。ラブライブ!楽曲の多くはストーリーとの繋がりやキャラクターとの関わり、メッセージ性を持ち、その歌詞をアレコレと考える事はラブライブ!における楽しみの一つであると言って過言ではないでしょう。その歌詞のほとんどを作詞されているのが言わずと知れた畑亜貴さんです。ラブライブ!の歌詞を考える事はラブライブ!作品における位置づけを考える事であると同時に、畑さんの作品表現として畑さんの視野を垣間見るという側面でも見る事ができるのではないかと思います。

さて、畑さんの作品として見る場合にとても重要な事があります。それは「畑亜貴という人物がどんな人なのかをしっかりと知る事」です。これは、前回記事でも触れました、原理・公理・定義とそこから導かれる結論との関係に起因します。

私の実体験で具体例をお話しします。学生時代、放射線量計を渡されて実験をするという課題を出された事があります。線量計を使うのは初めての事でしたが、放射線の線量を測る事の出来る機械。私を含め、多くの学生が金属や水による遮蔽効果や日光の有無などの、条件の違いによる線量の違いを調べる実験をしました。自然と言えば自然な考え方です。そんな中、ある学生が同一条件下や微妙な測り方の違いによる測定結果のバラツキを調べる実験をしました。その結果、同一条件でも測定結果にある程度バラツキがあり、軽微な測り方の違いでも大きく結果が異なるという事が分かりました。同じ条件であっても無視できないバラツキがあった、これは他の実験結果を評価する上でもとても重要な事で、実際には誰もが実験開始前に考える必要のある事でした。つまり私は「線量計はその時点での線量を良い精度で測定できる」という原理を信じて実験を開始してしまっていたのです。偽の命題からは真の命題は導けない、私達は「線量計を使った実験をする為に、線量計について知る」必要があったのです。

話を戻します。作品について考える場合にも、この線量計の話と同じ事が言えます。もし、畑さんの作品を「畑亜貴という人が表現されたもの」であると考え見る場合、「畑亜貴という人について知る」という事はとても重要な事です。

前置きが長くなりましたが、本記事はラブライブ!の歌詞について思慮を巡らせる方々、その歌詞の面白さの根源を探したい方々、畑さんの表現に魅了されもっと畑さんの事を知りたいと思われた方々を対象としたものになります。私自身、その答えを探し求めている最中ではありますが、現時点で思うところを以下で述べようと思います。

知名度のgap

畑さんについて知る中で驚いたのが、「知名度にgapがある」という事です。

まず大前提として、畑さんはかなりの有名人だと言って差し支えないでしょう。ラブライブ!作品に触れた事のある方であれば、大多数がどこかで畑さんのお名前は聞いた事があるでしょうし、表舞台で活躍されているキャストさん達と比較しても遜色のない知名度であると思います。ラブライブ!以外の作品にも多く携わっていらっしゃり、ラブライバーではないけれど畑さんの事を応援されている方も少なくないでしょう。

作詞に対する評価が高く多くの方に認知されている一方で、”畑亜貴”の名前を掲げた活動についてはその知名度に合わないgapが見られるように思います。

こちらは某日の畑さんの朝の挨拶になります。畑さんのフォロワー数は約9万人、そのうち♡の数は49(2019年6月10日現在)。畑さんの知名度を踏まえると驚くほど少数です。

こちらはライブリハーサルの呟き。やはり♡は159と決して多くありません。

最後にラジオ出演後の呟き。こちらは♡2020とやや多め。おそらくこのツイートは他の出演者さんがRTされた効果もあるでしょう。そう考えると、直接的に畑さんのTwitterから見て♡された方はいくら多く見積もっても1000代、もしくはそれ以下でしょう。やはり、畑さんレベルの知名人では決して大きくない値です。

勿論、TwitterのRT・♡の数がその内容を評価する上で大きな意味を持たない事は無論の事ではありますが、それでもこれだけフォロワー数と反応数に乖離があるのは、activeに畑さん自身を見ている方が少ない事の表れであると言っても過言ではないでしょう。

「作詞家としての畑亜貴」と「シンガーソングライターとしての畑亜貴」では見られ方に大きなgapがある。振り返って考えてみると当然の事ですが、ラブライブ!を通して畑さんを知り、その表現の美しさに魅了された私はその当たり前に気付くまでに時間を要したのでした。

貴女との出会い

私が畑さんを知ったきっかけは、言うまでもなくラブライブ!です。おそらくラブライブ!との出会いがなければ、そもそも畑さんの事を知る事はなかったでしょう。

今となっては、どの様にしてラブライブ!にハマっていったのかを覚えていませんが、初めて聞いた楽曲が「愛してるばんざーい!」であった事は今でも覚えています。先輩から勧められラブライブ!の事を知った私は瞬く間にラブライブ!に魅了されていきました。その先輩曰く、何故ハマったのかと聞かれた私は「歌詞が良かったから」と答えていたという事でした。その時こそ、私と畑さんとの出会いであり、畑さんの表現に敬意を抱いた瞬間だったのでしょう。

そうしてラブライブ!の世界にいると、意識しなくても畑さんの事を耳にする事になります。ラブライブ!楽曲は全て畑さんが作詞されている事。その一つ一つがラブライブ!のストーリーやコンセプトと合致したものになっている事。洒落た言語表現が多様されており、メロディーに乗せた時にとても魅力的になる事。畑さんの凄さを聞く機会が増え、私の中での”畑亜貴”という存在が神格化していくのを感じました。畑さん自身というより、畑さんの業績の凄さばかりに目がいっていたからこそ、そう思ったのでしょう。作詞家としての畑亜貴のみを見て神格化していた。今となって考えると、一面的にしか畑さんの事を見ていない上で一方的な高評価をする、大変失礼な事をしていたと反省しております。

私にとって、畑さんに対する見方が変わるきっかけとなったのは、鷲崎健さんとMay'nさんがパーソナリティーをされていた『電波諜報局』という番組に畑さんが出演された時の映像を見てからでした。その時、畑さんは『愛する人よ真実は誓わずにいよう』というアルバムをリリースされていた事もあり、シンガーソングライターとしての畑さんの歌に初めて触れました。そして、ラブライブ!の歌詞を聞いて抱いていた印象と大きなgapを感じ衝撃を受けました。どちらかというと暗い曲調で、歌詞もアイドルが歌うキラキラしたものからはかけ離れたものばかり。その時、私は無意識のうちに「ラブライブ!の歌詞は畑亜貴という光や希望に満ちた人が表現されたものだ」と思い込んでしまっていたという事に気付きました。同時に、同番組では畑さんへの質問コーナーもあり、そのドギマギとしたご回答を見て、私が一方的に抱いていた神格化像は音を立てて崩れると同時に、更なる尊敬の念を感じる事となったのでした。

それからしばらくして、私は畑さんのソロCDに触れるようになりました。ラブライブ!のとは正反対の曲ばかり、曲を聞いていく中で次第に疑問が生まれてきます。「何故、畑さんはこのような暗いテーマばかり扱うのだろう?畑さんはシンガーソングライターとしての活動で何を表現されたいのだろう?」

畑さんにとっての歌・歌詞による表現の根源が分からないでいるまま更にしばらくの時が経ち、某同人CD即売会で畑さんにお会いする機会がありました。実際に畑さんが目の前にいらっしゃるというだけでも大変興奮する出来事であった訳ですが、それだけでなく更なる衝撃を受けました。とても人間味があって優しい。ラブライブ!の歌詞にせよソロ楽曲にせよ、高尚で繊細な表現をされていて、どこか別世界・別次元の様に感じていた畑さんとの距離が思ったよりも近く、畑さんも同じ人間として色々な感情の中で生きていらっしゃるのだろうと考えさせられました。

そうして、畑亜貴としての活動を見知りする中で、畑さんにとっての”言葉による表現”は単なる表現手段ではなく、人生を通しての興味の対象であり趣味を通り越したライフワークなのだろうという事を感じる様になりました。畑さんにとっての”言葉”とは”表現”するとは何なのか、次章からはそれをテーマに述べていきたいと思います。

言語化するという事

畑さんについてお話しする中で欠かす事のできないキーワードとして「感情の言語化」があると思います。畑さんご自身も、今の職業が成り立っているのは感情の言語化に対して多大なる興味があるからだと公言されています。

この「言語化する」とはどういう事でしょうか。少なくとも、単純に、綺麗なものに対して「美しい」と言ったり、心揺さぶられるものに対して「感動した」と言う行為とは異なると思っています。畑さんはこの定義について明言されていませんが、畑さんのお話しを聞く中で感じた私の中での定義についてお話しします。

言語化する」事の根底には、しばしば言語論で唱えられる「言葉による存在の開始」と「言葉は抽象的であるからこそ言語として成立する」というテーマが関与しているのではないかと思います。まず、前者の「言葉による存在の開始」について具体例をもって説明します。

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さて、上に示したブレードは何色でしょうか。ラブライバーの方々であれば「サクラピンク」とお答えするでしょう。もしかしたら、ファッションやブランド物に詳しい方の中にも「サクラピンク」と回答される方がいらっしゃるかもしれません。しかし、そうではない他の多くの方はおそらく「ピンク」と答えるでしょう。

では「サクラピンク」が正解で、「ピンク」と答える人は間違っているのでしょうか。勿論そんな事はありません。包含関係としては「ピンク」という集合の部分集合として「サクラピンク」が存在している事になります。その為、これを「ピンク」と言う事は全く間違いではないのですが、ラブライバーの方であれば「サクラピンク」と言う方がメジャーでしょう。この一つの理由としては、もう一人「ピンク」がイメージカラーのメンバーがおり区別する為という事が挙げられると思いますが、もう1つ「サクラピンク」という言葉によって「サクラピンク」という色が存在し始めたという事が挙げられます。

そもそも「ピンク」はHSB色相環においてH300~330付近の色であり、単一の色を表している訳ではありません。その中には、マゼンダ・ライトコーラル・スイートピンク・サクラピンクなどと多数のピンクがあります。しかし、実際にはそれらの区別を知らなくても支障なく会話を行う事ができます。それは、「サクラピンクを知らない人にとってはサクラピンクは存在しない」からです。サクラピンクが存在しない世界で生きている訳だから、「この色はサクラピンクだ」と表現する必要がないのです。逆にサクラピンクを知っており認識している人の場合、サクラピンクが存在する世界で生きている事になるからこそ、最初の質問に「ピンク」ではなく「サクラピンク」と答える事が出来たのです。まさに「サクラピンク」という言葉によって「サクラピンク」という色が存在する事が出来ると言う事ができるでしょう。

この「言葉を定義する事によって存在を開始させる」という行為は、言語活動において重要である一方で、やり過ぎると逆に言語の円滑性を損ないます。先程述べたピンクの例を再度用います。そもそも「ピンク」には、マゼンダ、ライトコーラル、スイートピンク、サクラピンク・・・と色相だけでも多種あるばかりでなく、彩度や明るさも含めると無限の種類の「ピンク」が存在します。そんな無数にある「ピンク」の一つ一つに名前をつけていては、言語など成り立つ筈もありません。だからこそ、「ピンク」は幅を持った抽象的な概念として存在しています。固有名詞を除く名詞や形容詞の多くは「抽象的であるからこそ、その対象に存在を与える事が出来る」と言えます。

さて、ここまで言葉に元来内包された抽象性についてお話ししました。この抽象性は特に感情について考える上で大きな影響を持つと私は思っています。

例えば、「感動した!」と聞いた時、どの様に感じるでしょうか。少なくともネガティブな意味ではない、何となくダイブいい感じと多くの方は思うでしょう。しかし、その「感動した!」という言葉は、「芹沢光治良先生の作品を読んで戦後の動乱における心情の変化について考えさせられた」という場合に使う人もいれば、「今まで鉄棒が出来なかった我が子が初めて逆上がりができた」という時に使う人もいる、更には「一か月かけて計画した銀行強盗が手際よく成功し達成感に満ち溢れている」人も使うかもしれません。言うまでもなく、どれも全く違う意味の「感動した!」です。かなり仰々しい例を用いましたが、実際にはもっと微妙な差異であっても必ず意味に違いは生まれます。「感動した!」と発言した人の性格・背景・その時の心理・周囲の影響など無数の要因があるでしょう。当然の事ながら、一つ一つの感動に対してわざわざ新しい言葉を作っていると言語が成り立たなくなります。抽象性があるからこそ言語が成り立つ、その一方で、抽象的であるからこそ、その感情を正確に理解するのはとても難しい事であるのだと思います。

畑さんの言う「感情の言語化」とは、その”単一の感情”をより正確に理解しようとする営みの事を意味しているのではないかと私は思います。畑さんは「TaTa-LaLa」という曲の作詞について、この様にコメントされています。”辛い”という一つの言葉にも多種の”辛い”が内包されていて、それを区別させようとされている様に感じます。

私はこういう感情で”辛い”を表現しましたけども・・・私の辛いはこれです、でも皆の辛いはどう?

         畑亜貴の「弱り目に祟られろ!レディオ」Season3 001 より

「感情の言語化」について、言語論に基づく背景を述べましたが、まだ実感がわかないかもしれません。別の領域で「言語化」を実践されている方がいらっしゃるので、もうお一人例としてご紹介致します。それはグルメレポーターの彦摩呂さんです。

彦摩呂さんといえば、比喩表現を用いたグルメレポートが特徴的です。一つ一つの料理に対して異なる表現でレポートされており、その彦摩呂節の多様さには驚かされるばかりです。しかし、よく考えてみると、どのグルメレポートも「美味しい」という言葉と代替可能である事に気付きます。料理の美味しさを伝える為に「美味しい」と言う、当たり前の事です。ところが、先述の通り、実際には「美味しい」とは抽象的な表現であり、実際には無限の種類の「美味しい」が存在します。彦摩呂さんによって「言語化された美味しい」は、その時に彦摩呂さんにしか感じる事のできなかった「美味しい」だけを表現する、とても限定的な「美味しい」表現が可能となっているのでしょう。

そして、先程の言語論の話と同様に、そのグルメレポートを聞いた私達がその「美味しい」を理解する事が難しいという事も同じです。料理を何かに比喩されても、当然の事ながら私達はその味を正確に知る事はできません。しかし、少なくともその言語化表現によって「美味しい」という抽象的な集合がある程度絞られるため、私達にその美味しさを伝える効果があるのだと思います。

さて、言語化という行為によって言葉の意味は限定化される、しかしそれでも依然としてそれを正確に理解する事は困難であるという事を述べました。もし、作品で表現された「感情の言語化」をより理解しようとする為にはどうすれば良いのでしょうか。

言語化された感情を理解したい

 今までの話を整理すると、歌詞をはじめとした作品表現では「感情の言語化」が行われている、しかしその言語化表現は発信者にとっての限定的・単一的な意味を持つ表現であり、その他の第三者にとってはその一義性を解釈するのは非常に困難であるという事でした。さて、「言語化された感情」を更に言語化してより正確に理解するにはどの様にしたら良いのでしょうか。

つまるところ、消費者である我々が再度自分のものとして吸収できるものに”言語化”しなおすというところが最終目標なのではないかと思っています。畑さんのラジオでも、感情表現の読み取り方について話題になった事があります。

アニメソングの場合は作品が背景として存在するので歌詞の中で詳しく説明しなくても表そうとしている感情を理解しやすいのではないかと思います。一方オリジナルソングの場合はその曲の中でしか情報が無いので特定の状況を背景とした感情を表そうとするとストーリー性のある歌詞になるのではないかと思います。

(中略)

歌詞の中で詳しく状況を述べていない事から、他の人の感情ではなく聞いた人自身の感情を思い起こさせる形になっていると思います。

         畑亜貴の「弱り目に祟られろ!レディオ」Season3 002 より

 

これに対して畑さんは以下の様にお答えされています。

その人の背景が分からなければ想像するじゃない?

「歌詞の中で詳しく状況を述べていない事から、他の人の感情ではなく聞いた人自身の感情を思い起こさせる形になっている」っていう風に考える事が私は娯楽だと思ってるのね。少なからずの時間をこれに費やしてくれたなって思うと、そこでうちら繋がってるじゃんっていう気がするんだよね。そういう繋がりが私は好きなのかもしれない。

         畑亜貴の「弱り目に祟られろ!レディオ」Season3 002 より

畑さんのスタンスとして、畑さんだからこそ表現する事のできた感情を提示したいという立場もありつつ、それ以上に畑さんから作品を通して問題提起をし、それに対して我々聞き手側に自分自身だけの答えを探す旅に出て欲しいという想いを強く感じております。最終的な答えが人それぞれ違う、それは「畑亜貴の感情の言語化を読み取る」という意味では正確性に欠けるのかもしれないけど、むしろ同じ問題提起に対して向き合った時間こそが畑さんとの繋がりとして残るのだろうと思いました。

そうは言いつつ、”背景”をより詳しく知るための努力は必須でしょう。それすなわち、最初に述べた「畑亜貴という人物がどんな人なのかをしっかりと知る」という事です。私は昔、ラブライブ!の歌詞には畑亜貴という人が投影されていると思い込んでいました。畑さんの業績に目が向き、知らず知らずのうちに神格化していた、まさに線量計の例と同じ間違いをしていたと言えるでしょう。

 実際、「仕事で書いている歌詞は皆さんのロマンが優先される」と畑さん自身も仰っています。しかし、だからといってラブライブ!をはじめとした種々の音楽作品の歌詞が全く畑さんを反映していないかというとそれは全くの間違いだと思います。というのも、畑さんからは思っている事をオープンにしたい、感情をさらけ出したいという欲求が感じられるからです。

ラブライブ!においては、その歌詞は一貫してラブライブ!の世界観にのっとったものです。その時点で、曲にある程度の設計図は出来ているものの、細かいインテリアは畑さんの裁量であり、それこそ畑さんにしか出来ない「感情の言語化」がなされている部分になると思います。畑亜貴という人を知り、もっとその感情の深淵を垣間見たいものだと思っております。

貴女を想う

畑さんの事を知るほど、歌詞や曲の表現から感じられる繊細で高貴な印象とのgapを感じます。可愛いものが好きな事。インドアかと思いきや、旅が好きな事。夕方頃のなるとオフモードになる事。お酒が好きな事。人脈が広く、それも癖のある面白い方とよく繋がっている事。

そんな中、畑さんについてとても面白いと思ったのが、くだらない疑問が泉の様に湧いてくるという事です。日常生活でほとんどの人が気にしないような、それこそ気にしなくても全く生きていく上で支障のない様な疑問がとても多いのだと思いました。そして、これは表現者としての畑さんの強みなのではないかとも同時に思います。というのも、くだらない疑問が多いという事を言い換えると、たくさんの発見がありそれに対してご自分の答えを導こうとする習慣が日常レベルであるという事だからです。まさに、私達が作品を提示されて初めてしている様な思考活動を、日常の些細な出来事で行っているのだろうと思います。

No brand girls”という曲で「チャンスの前髪をはなさない」というフレーズがあります。日常生活においてチャンスというのは意外と多い、ただそれはあっという間に過ぎ去っていくためそれをチャンスだと実際に認識するのが難しく、人が”チャンス”と感じられる機会は実際には少ないのだと思います。畑さんのくだらない疑問の多さは、それが微細な事であれ大きな事であれ、新しいものに出会うチャンスに対して敏感な事の表れなのではないかと感じます。もしかしたら、畑さんの作品表現の面白さのルーツには、この様な日常の過ごし方もあるのかもしれませんね。

ここまで読んでくださった方へ

畑さん自身のスタンスとしては、今回扱った様な話を不特定多数には発信したくないと思っていらっしゃるのではないかと感じております。自分の興味のある事を、それに対して興味がある人だけに向けて発信したい、そんな場を望んでシンガーソングライターとして、表現者としての活動をされているのだろうと推察しております。その意味では、私が畑さんの活動を紹介するという行為は、もしかするとそれに逆行する行為なのかもしれません。

しかし、中には興味はある、けれど知る機会が無くてアクセスできないという方もいらっしゃるのではないかと思います。興味を持ってくださった方に向けて、畑さんの活動をいくつかご紹介したいと思います。

6月22日Lantis祭り2日目。数年ぶりの開催となったLantis祭りですが、今年はAqoursや虹ケ咲学園の皆さんも出演されるという事で、ラブライバーの方でも参加される方が少なくないと思います。そんな中、2日目公演となる6月22日には、畑さんもアーティストの1人として出演されます。作詞家としての畑さんではなく、シンガーソングライターとしての畑さんが表舞台で見られる機会、大変貴重で楽しみなイベントです。

もう一つご紹介したいのが、畑さんがメインパーソナリティーとしてされているラジオです。「弱り目に祟られろ!レディオ」というラジオが毎月13日・27日の2回配信されています。このラジオは、以前もされていたラジオが復活したもので、現在はSeason3として配信されています。作品表現のお話は勿論、畑さんの普段のお話も聞く事が出来て、大変面白い内容となっております。また、ゲストさんをお呼びしている回も多く、畑さんが様々な領域の方と人脈を持っていらっしゃるのが分かります。

・「弱り目に祟られろ!レディオ」Season3 (毎月13日・27日更新)

www.youtube.com

 ・「弱り目に祟られろ!レディオ」Season2 アーカイブ (全10回)

www.youtube.com

最後にもう1つご紹介するのが「猫舌Tea Time」 です。こちらは、noteというウェブサービスで配信されているもので、有料コンテンツになります。有料にする事で、本当に興味のある方にのみ聞いてもらえるようにされているようです。こちらは「弱り目に祟られろ!レディオ」と同様に言語化や普段抱えている疑問についてお話しされているだけでなく、なかなか表では話せないようなお話までされていて、大変面白いです。「弱り目に祟られろ!レディオ」を聞いて、更に興味を持ったという方は是非聞いてみてください。

・「弱り目に祟られろ!レディオ」アカウント (猫舌Tea Timeはこちらから購入可能)

note.mu

・note (スマートフォンアプリもあります。こちらはweb Ver. )

note.mu

おわりに

大変長くにわたる文章にお付き合いいただきましてありがとうございました。私はラブライブ!においてラブライブ!関係者のソロ活動も、ラブライブ!に内包された楽しみの一つだと思っているのですが、それはラブライブ!で知った事とソロ活動で知った事がお互いにフィードバックして、双方の活動がより楽しく感じられる様になるからです。今回はその一環として、畑亜貴さんについてお話しさせていただきました。

「弱り目に祟られろ!レディオ」略して「たたらじ」のリスナーさんが増え、畑さんと一緒に感情の言語化に触れてみたいと思った方がいらっしゃれば幸いでございます。

ラブライブ!を巡るカオス的時間・空間

ラブライブ!では「時間」が印象的なテーマの1つとして扱われている様に感じます。時間は誰にでも、何事においても本来的に付き纏うものではありますが、高校生の間しか活動できないスクールアイドルは時間的制約の強さを実感させ、その限られた時間の中でどの様に過ごすべきなのかという問いをより大きなものとさせているのではないかと思っています。

今回の内容は「ラブライブ!における時間・空間」です。時間をどう捉えるのかという問いは、ある種哲学的な問いの様に感じられる一方で、科学的な側面も大きく持っています。科学史においても時間という概念は時代と共に変遷し、それに伴ってまた新しい疑問を生み出してきました。

また、時間概念は「この時間の中でどの様に輝けばよいのか」という疑問にも繋がります。これはラブライブ!作品における中核ともなるテーマでありますが、その根底の1つには時間の捉え方があるでしょう。

では、以上のテーマを科学的側面と哲学的側面の双方を交えながら考えていこうと思います。

 

 

科学的な”時間”の変遷

なんてあっという間に過ぎてゆくのだろう
立ち止まることもできない季節は
今日も(去って)今日が(去って)前を向くしかない
決して戻れないね

Saint Aqours Snow 「Over The Next Rainbow」より

「時間は戻らない」「時間には絶対性がある」

この当たり前の様な考えは「古典力学的な時間」であると言えます。ニュートンの運動の法則に基づいて発展した古典力学は、多くの物理現象を理論的に説明し、科学の発展をもたらしました。

しかし、時代が進み古典力学では説明できない現象が発見されるようになりました。そこで登場したのが「相対性理論」です。相対性理論は「時空間は観測者によって異なる相対的なものである」可能性を示しました。時空間が相対的なものであるという事は些細な様に見えて、とても大きな帰結をもたらします。なぜなら、時間が絶対的なものではない、見方によって変わるものであるという事は「時を巻き戻せる」可能性を示唆しているからです。

更に時代が進むとワームホール理論が提唱され、ワームホールが物理的には存在可能である事が示され、「未来や過去へのタイムトラベル」の可能性が示唆されるようになりました。

時間概念の変化に伴うパラダイムシフト

時間が絶対的なものであった時・・・私達はどの様に考え、行動するでしょうか。

「今を後悔しないように生きる」「これから起こる未来に期待する」

この類の回答がメジャーなものではないかと思います。「昔の自分に希望を託す」という人はまずいないでしょう。

この事について昔の人がどう考えていたかは、宗教について考えてみると分かりやすいと思います。私の知る限りでは、今や未来に希望を持たせる宗教は存在しても、過去に光を見出した宗教は無かったのではないかと思います。だからこそ、ある宗教は”今”に感謝するために一日に何度もお祈りを重ね、またある宗教では死後の国や輪廻転生という未来に楽しみを見出していたのだと考えられます。

では時間が相対的なものであったら?これは現代に数多あるSF作品に表れていると思います。

「あの時こうしていたら」「もしあの日に戻ってやり直せたら」

誰しもが一度は思った事があると思います。現代のSF作品では時間の相対性(タイムトラベル)をテーマにしているものが多く見受けられます。勿論、その中では時間に相対性があるからこそ生じる悩みも描かれており、それ自体が「どの様に輝けば良いか」という疑問にも繋がるので後述します。

少し話が逸れますが、日本最古のSF作品をご存知でしょうか。1800年代か1900年代の作品なのでは、と思いきや、実は”竹取物語”が最古のSF作品です。月から宇宙人がやってくるという作品で、”時間”はテーマとして意識されていません。同様に昔の作品では”時間”がテーマとして扱われた事はなかったのか、と思いきや、なんと驚き(?)昔の作品でも”時間”それも「時間の相対性」をテーマとしたSF作品があります。皆さんご存知「浦島太郎」ですね。勿論、浦島太郎の作者が相対性理論やらワームホールやらと考えて作ったとは思いませんが、日本の昔の作品でも既に時間の相対性が描かれている事には少し面白さを感じます。

ラブライブ!における時間

では、ラブライブ!においてはどの様な時間が表現されているでしょうか。ラブライブ!で表出されている青春は終わりのある時間を表現しており、時間を絶対性を持つものであると捉えていると言えます。だからこそ、ラブライブ!では今どう輝くか、未来の僕たちがどうしているのかというテーマが見受けられています。

しかし、時間表現がそれだけしかないかというと、そうでもありません。ラブライブ!では幼少期の姿が現在に何か繋がりを持つかの様に表現されています。劇場版ラブライブ!The School Idol Movieでは幼少期に水溜まりを跳ぶ穂乃果が描かれ、更に女性シンガーと出会ってから非現実的なお花畑でまた水溜まりを跳ぶ事になります。ラブライブ!サンシャイン‼ではアニメシリーズを通して各キャラの幼少期が描かれ、更に千歌においては”紙飛行機”という、見ている者に想像を膨らませる幼少期のエピソードが登場します。劇場版ラブライブ!サンシャイン‼においてもそれは引き継がれ、幼少期のAqoursが集う非現実的な空間まで表現されています。

この「もしも」を内包している相対的な時空間は、運命とは何かを私達に考えさせます。次のテーマとして、数学的カオスに基づく運命論を考えてみましょう。

運命・必然

偶然と運命。それはラブライブ!サンシャイン‼2期5話「犬を拾う。」でもテーマとなっており、多くの人がそれに対して思いを巡らせたものだと思います。

「運命」という言葉はラブライブ!作中でも「見えない力」と表現されていた様に、科学とは無縁でどこかスピリチュアルな言葉の様に感じます。しかし「運命」を「必然」と言い換えたら?どちらもdestinyですが、前者は東條希さんが発した言葉の様に感じられる一方で、後者はラボラトリーで白衣を着ている人が言っていてもおかしくない様に思います。この偶然と運命についての考え方は科学の発展に伴い変化したものの1つであると言えるでしょう。

 現代科学発展以前では”運命”は神様の贈り物である事はあっても、科学現象の帰結だと捉えられる事はあまりありませんでした。古文においても”因縁”を意味する「契り」という言葉が多用されているように、「運命」=「非科学的に決定力を持つ力」と考えられていた事でしょう。

科学が発展し、様々な現象が科学の範疇で説明できる様になると、destinyの持つ意味に変化が生じました。神の怒りだと考えられていた日食は周期的な天体運動として発生日時を正確に予測できるようになり、昔は生贄を捧げた雨乞いも今では何日後に雨が降るのかが分かるようになりました。「運命」が「必然」に変わったと言っても過言ではないでしょう。

量子・粒子のレベルまで科学が発展し、この細部のレベルまで科学法則が見出されると、更に極端な運命論も考える事ができます。「素粒子のレベルまで科学法則に従っているのであれば、実は自分の人生は既定されているのではないか?ある瞬間に自分が何をしているのかは既に科学的に決まっていて、変わる事はないのではないか?」自分の力では未来は変わらない、この考え方はどこか世界を空虚的に見た考え方であるとも言えるでしょう。運命とは何か、これは先述した「どの様に輝けば良いか」という疑問以前に、「そもそもその輝きに意味はあるのか」という更に根源的な問いにも繋がります。

水溜まりと紙飛行機

私はラブライブ!を通して気になっている事がありました。

① ”もしも”穂乃果が幼少期に水溜まりを跳び超える事ができなかったらμ'sはどうなっていたのだろうか?

② ”もしも”千歌が幼少期に紙飛行機の事を諦めなかったらAqoursはどうなっていたのだろうか?

μ'sは存在したのだろうか?Aqoursは存在したのだろうか?些細な事の様に思われるかもしれませんが、そうとも言い切れません。これは「バタフライ効果」と呼ばれる思考実験です。

「小さな蝶の羽ばたきが地球の裏側で大きな竜巻を起こした」と言って信じられるでしょうか。俄かには信じ難いこの一文は”可能性の上では”有り得る現象です。それ程までに、重大な帰結というものは先行する些細なイベントによる影響を受けるのです。

このバタフライ効果という考え方はカオス理論・カオス力学といった数学・物理分野の思考実験によるものです。先述の通り、近年ではタイムトラベルを題材とした作品も多くあり、そこで”パラレルワールド”と共にしばしばテーマとなる考え方なので、ご存知の方も少なくないでしょう。ラブライブ!においても、幼少期の印象的なエピソードが描かれているという意味で、カオス理論とは切り離せない位置にあると思っていましたが、いよいよ最近カオス理論を意識しているのではないかと思われる歌が発表されました。

パラレル いまの僕らでよかった 他の選択肢だったら
ここで一緒に 笑い合えなかったかも
パラレル もしも の答えは 波がさらって行っちゃったよ
いつかまた会えること 潮風が知ってる

Aqours 「Marine Border Parasol」より

別の選択肢を選んだ、仮想的な別の世界では今のように笑い合えなかったかもしれない。そんな”もしも”の話。もし千歌が紙飛行機を遠くまで飛ばせる事ができていれば、廃校する事はなくてもAqoursの輝きは見つからなかったかもしれない。もし梨子がピアノで行き詰まる事がなければ、梨子は世界でも一流のピアニストになっていたかもしれないが、もしかしたらAqoursは存在しなかったかもしれない。もし一年生の時に鞠莉が怪我をしなければ、果南はスクールアイドルを辞める事に積極的にならなかったかもしれないし、3年生組の3人でAqoursの話は完結していたかもしれない。

そんな枚挙に暇が無いような”もしも”の話。そんな些細な”もしも”によって違ったかもしれない今。一見トリビアルなイベントの様に見えるかもしれませんが、「未来に対する決定力を有し得る」という意味ではどれも”運命”の一種なのかもしれません。

時間の相対性の話の中で、「あの時こうしていたら」と誰もが思った事があると述べました。しかし、実際に”こうしていたら”によって未来が好転する保証はどこにもないのです。人間誰しも後悔を抱かずには生きられないものですが、その”もしも”に対してどの様なattitudeでいればよいのかはラブライブ!を通して考えさせられる命題です。

偶然

運命と対になる概念として偶然があります。身近な例としては、ラブライブ!スクールアイドルフェスティバルの特待生勧誘が挙げられます。

社員引き、一度の11連勧誘でUR部員を4、5人、もしくはそれ以上獲得してしまう。そんな現象がTwitterを見ていると時々見受けられます。さて、これは徳を積んだ結果による運命の力なのでしょうか。それとも偶然なのでしょうか。

どちらも可能性としては否定できませんが、本記事で言うところの「必然」であると考えるのが納得しやすいのではないかと思います。11連勧誘でURを4人以上獲得する確率はSR以上確定枠を除くと約100万分の3です。5人以上獲得する確率でも約1億分の4もあります。一見起こる事があり得ないような小さな確率のように見えますが、全世界でラブライブ!スクールアイドルフェスティバルのダウンロード数が4500万を超えている事を踏まえるといかがでしょうか。100万分の3や1億分の4という確率がそもそもアプリのダウンロード数にさえ至らない高確率である事に気付きます。

一個人にとっては偶然としか考えられないような奇跡的な出来事でも、大局的に見ると、むしろ起こらない方が珍しい必然の出来事である事が分かります。同様の議論が「偶然と運命」がテーマとなっているラブライブ!サンシャイン‼2期5話「犬を拾う。」でも適応できます。このアニメ作中では①雨風で傘が飛ばされる②飛ばされた傘がブロックに引っかかる③引っかかったブロックに犬がいた、この3つのイベントが重なったに過ぎません。統計的データや数学的根拠こそありませんが、傘が飛ばされる事は珍しい事ではないでしょうし、犬が道中のブロックで雨宿りしている事も普通にある事です。この様に考えると、犬との出会いは善子にとっては奇跡的としか思えないような出来事ではあっても、大局的に見ると誰かしらが経験して当たり前の事象である事が類推できます。

この様に、一見自分にとっては偶然もしくは運命の様に感じられるような事であっても、実は起こるべくして起こったpseudo-chanceは意外とそして誰にでもあるものです。ではその様な事象には何の意味も無いのかというと、それはまた別問題でしょう。なぜなら、その偶然と必然の狭間にある出来事は小さな蝶の羽ばたきとして、未来に大きな変化をもたらすかもしれないからです。

Thank you, FRIENDS!!
会えてよかったな 会えてよかったな 最高の絆!
人生には時々 びっくりなプレゼントがあるみたいだ
ねえ会えてよかったな 会えてよかったな
これはなんの奇跡だろう?
消えないでって呟きながら もっと先へ飛び出すんだ

Aqours 「Thank you, FRIENDS!!」より

「出会いがわたしを変えたみたい」と小泉花陽さんも”なわとび”で歌っていました。たとえ実は必然の結果だったとしても、そのびっくりなプレゼントは確実に未来へ飛び出す糧となっている事でしょう。この捉えどころのない運命に対する考え方がラブライブ!においてどの様に表れているのか、というのは私が常々意識して見ていた視点でした。

科学の不完全性

ここまで”科学的視点”という観点で時間や運命というテーマを見てきました。”科学的”という言葉に対して、皆さんはどの様に感じるでしょうか。科学はしばしば、理路整然としていて真実を語っているかの様に思われているかもしれません。

しかし、実際には100%真実を語っていると言い切れる科学はほとんどありません。おそらく、その様に言い切れる科学は数学くらいでしょう。

これは、科学における理論の組み立て方に起因します。科学は”定義”や”公理”、”原理”を用いて定理を導く学問であると言えます。このうち”公理”と”原理”は「証明無しで真であると仮定された命題」です。例えば、先述の古典力学では”運動方程式”が原理の1つとして仮定されています。しかし、これは観察的に運動方程式が成立しそうだという事で前提条件とされたに過ぎず、実際に運動方程式が真である根拠は世界中のどこにも存在しません。

つまり、科学においては現時点でもっともらしい命題が採択されているに過ぎず、100%の真理を示している訳ではないのです。その意味では、これまで時間の絶対性・相対性や運命論についてお話ししましたが、どの考えが正しいのかは全く分からず、想像の余地が大いにあります。科学は正しい答えを探究しているようで、その実かなり脆い面もあります。

このような捉えどころのないテーマを考える上で、哲学的な考えは科学の脆弱性を越えて思考を巡らせる手段となると思います。そこで、今までの議論を踏まえた上で科学から離れて見た、ラブライブ!における「どの様に輝けば良いか」という問いの扱われ方を考えたいと思います。先述の通り、時間には今や未来を重視した絶対的時間概念と、過去の振り返りを内包する相対的時間概念の2つがあります。このぞれぞれについての考えを述べる前に、どちらにも繋がる1つの哲学的思想をご紹介したいと思います。

ラブライブ!ニヒリズム 

その思想とはニヒリズム虚無主義です。ニヒリズムとの関連性からラブライブ!、特にラブライブ!サンシャイン‼を見る事が出来るかもしれないという事です。

これは、私自身の気付きではなく、さくらいさん(@Fate_7)から学ばせていただいた内容となります。「Aqoursスカイハイ!とニーチェ」というタイトルでされたツイートキャスティングで纏められておりますので、まずはそちらを聞いていただけると幸いです。

twitcasting.tv

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 ツイートキャスティングの内容以上に私の方から述べるのは蛇足となりますので、代わりに私の感想とさくらいさんとの出会いについて語っておこうと思います。

このツイートキャスティングは「ラブライブログアワード2018」という魂さん(@tamashiill)主催のアワードでノミネートされていたものです。私もラブライブ!について纏められたブログを読むのが好きなので、ノミネートされた作品を覗かせていただいていたのですが、このさくらいさんの作品はその中でも特に私が感銘を受けたもので、アワードでも票を投じさせていただきました。

ラブライブ!サンシャイン‼とニヒリズムの思想の類似性、そして理論的な繋がりがとても分かりやすく説明されており、大変参考になりました。また、私がこの作品に説得力を感じたのは、公式で既に”哲学者”のイメージが語られていたからでもあります。

歌詞に何度も出てくる「イマ」は、”意識しない哲学者”というイメージで書いていました。第12話は、多分彼女たちの中で哲学的な想いが生まれたタイミングだと思ったんですね。

ラブライブ!サンシャイン‼TVアニメオフィシャルBOOK2 (70ページ)「WATER BLUE NEW WORLDに対する畑亜貴さんのコメント」より

そしてニヒリズムを通した目線は、本記事で取り上げた内容に回答するものでもあるのです。

永劫回帰する絶対的時間

現在と未来、それを重視した絶対的時間概念を本記事では1つの考えとしてご紹介しました。それを科学的に見た時、「究極的な科学的運命論」に行きつく事も、「運命・必然」の章で取り扱いました。

繰り返しになりますが、この”科学的運命論”は全てが規定された法則に従っているため未来の一時点も既に決まっているという考え方です。これを哲学的視点で見ると、ニーチェの言う”永劫回帰”と同じ考え方である事に気付きます。あらゆる現象が規則的・周期的で無価値である。だからこそ、無価値である事を前向きに捉え、自ら価値を見出し一瞬一瞬を生きるという能動的ニヒリズムは、科学的運命論に対する前向きなattitudeにもなっている事が分かります。

浦の星女学院の校訓である「克己創造」が言う通り、何も無いと思っていたAqoursが「本当は持っていた」という事に気付き自ら価値を創造してきた事は私達に感動と勇気を与えると共に、今度は私達が「照らされたから照らしてみたい」と言いたくなるような前向きなニヒリズムを語りかけてくれている様に思います。

行間の空白に意味をこめて

では、相対的時間つまり過去の振り返りという視点で見るといかがでしょうか。もし、過去に戻ってやり直す事ができるとしたら、どうしますか?

もし仮に過去からやり直したとしても、バタフライ効果によって未来の行く末が分からない事には変わりないという点が大きな問題となります。ではニーチェの思想に基づくとどうでしょう。「起きる事全てを受け入れて」 運命愛です。

この運命愛という考え方は一見簡単そうに見えて、実はとても難しいと私は思っております。なぜなら、自分にとって好都合な出来事だけではなく、自分にとって不都合な出来事さえも自分の一部であると受け入れるという考え方だからです。しかし、よく考えてみると、これはまさにラブライブ!サンシャイン‼、特に今回の映画「劇場版ラブライブ!サンシャイン‼ The School Idol Movie Over the Rainbow」の中核となるテーマとなっている事に気付きます。今回の映画作品も、ラブライブ!サンシャイン‼におけるニヒリズム表現の延長線になっているという見方もまた面白いのではないかと思います。

さて、運命についてはラブライブ!サンシャイン‼2期5話「犬を拾う。」でもテーマとなっていましたし、運命愛というとどちらかといえばAqoursの印象の方が強くなるかもしれません。しかし、私はμ's、とくに南ことりさんこそ運命愛を強く持っている人物なのではないかと考えています。

μ'sで運命愛を歌った曲というと”僕らは今のなかで”や”そして最後のページには”などが挙げられると思います。苦しさや怒った事、泣いた事も全て受け入れてミライに変えていく、私も大好きな曲です。では、ストーリー上ではいかがでしょうか。

にこ「よく言うわ。くだらない事で時間使っちゃっただけじゃない。」

ことり「そんなに無駄じゃなかったんじゃないかな。」

にこ「はぁ?どこが?」

ことり「私は楽しかったよ。お陰で衣装のデザインのヒントももらえた。」

にこ「衣装係って言われて損な役回りに慣れちゃってるんじゃない?」

ことり「私には私の役目がある。今までだってそうだよ。私はみんなが決めた事、やりたい事にずっとついていきたい。道に迷いそうになる事もあるけれど、それが無駄になるとは私は思わない。」

ラブライブ!TVアニメ2期6話「ハッピーハロウィン」より

μ'sが自らの個性に気付くハロウィン回ですが、私はその話の流れ以上に、このことりとにこのやり取りにとても魅力を感じます。にこが無駄だと一刀両断する一方で、運命愛を持ったことりが対比的に描かれており、「起きる事全てを受け入れて」いる事が分かります。

この話は、この姿勢が更に南ことり役を務める内田彩さんにも見受けられる点に感慨深さを感じます。運命愛を感じられる2つの作品、”Blooming!”と"Say Goodbye, Say Hello"を聴いていただいて、本記事を締めようと思います。

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おわりに

ラブライブ!における科学的視点というもの私は以前から興味深いものだと感じておりました。特に、時空間は私自身が科学的にも興味を持っていた内容でもあり、この2つの交点となる話を今回はさせていただきました。”ラブライブ!と科学”という視点はかなり前から持っていたのですが、ニヒリズムとの出会いは完全にさくらいさんとの出会いのお陰で、この考えを組み込むと更にラブライブ!における時間表現が興味深くなると感じ、本記事とさせていただきました。

さて、これにておしまいですが、おまけとして本記事で扱った科学現象について軽く触れておこうと思います。本題からは完全に外れますが、ご興味のある方はどうぞお付き合いください。

おまけ

ニュートン力学(古典力学)

慣性の法則運動方程式、作用反作用の法則の3つを原理として考案された物理学です。本記事と関連する事項で特徴的な事としては、絶対時間があります。ニュートン力学においては、時間は絶対的、つまり時間は観測者によって異なる事はなく、時間が一意的に決まるとその時点での空間や現象も一意的に決定するものとなります。

相対性理論

相対性原理と光速度不変の原理の2つに基づく物理学です。先述の通り、科学では原理が変われば結論が変わります。その結果として、時間の相対性、つまり観測者によって時間が異なるという結論が得られます。これは「観測者によって光速度が異なる事はない」という命題が出発点となっているからです。一見違和感を感じないかもしれませんが、この主張は「静止している人にも、光速度の2分の1の速さで運動している人にも、光速度の99 %の速さで運動している人にも、同じ光の速度で観測される」と主張しているのです!ニュートン力学における相対速度の概念をご存知の方はとても違和感を感じると思います。では、相対性理論が受け入れられている今なお、なぜ多くの人が時間の絶対性の中で生きているかというと、それは相対性理論の結果の式を近似するとニュートン力学の式になるからです。相対性理論では補正項の中に(v/c)^2という項が生じますが(v:観測者の速度、c:光速度)、通常の生活をしている人にとっては(v/c)^2 ≒ 0です。だからこそ、私達の多くにとっては時間は絶対的であり、かつ、相対的な時間も考慮する事ができるのですね。

・カオス理論

カオス理論は「未来を予測できない」という点に大きな主眼があります。これは初期値への鋭敏性、つまり始まりのごくごく小さな誤差が、最終的な計算結果に大きな誤差をもたらすという言い方もされます(つまり、バタフライ効果の事ですね)。例えば、1日後のある時点での出来事を決定する写像fがn個の独立的イベントX1~Xnで決定されると考えましょう。難しい書き方をしましたが、関数f(X1,X2,・・・,Xn)を考えると読み替えていただいても大丈夫です。X1~Xnが互いに独立である場合、分散の式は

V[f] = Σ V[Xi]

となります。式で書くと分かり辛いかもしれませんが、この結果を一言で言うと、「計算を繰り返す程誤差が大きくなっている!」という事です。つまり、各独立変数の分散が0でない限り、結果の分散は果てしなく大きくなり、予測値としての意味がどんどん小さくなるのです。

では、独立変数の分散を0にすれば良いのではないか?と思われるかもしれません。しかし、実際に誤差なく分かる観察結果はまずありません。更に、1人の人間の未来を予測するとした場合、そもそも必要となる独立変数がいくつあるのかさえ分かったものではありません。小さな違いが故に、未来に大きな違いとなる、故に未来の僕らは知ってても、今の僕らは知る事がない訳ですね。

・文献

更に詳しく知りたいという方の為に、参考になる本を紹介して終わります。

大宮信光 (2018). 「眠れなくなるほど面白い 図解 相対性理論日本文芸社

② 広江克彦 (2012). 「趣味で相対論」 理工図書

エドワード・B・バーガー & マイケル・スターバード 著. 熊谷玲美・松井信彦 訳 (2010). 「カオスとアクシデントを操る数学 難解なテーマがサラリとわかるガイドブク」 早川書房