概念と呼ばれた貴女を想う

Aqours 5thライブお疲れ様でした。劇場版を主軸としながらも、その根底にあるAqoursの輝きを感じられる、とても感動的なライブでした。Aqours、そしてラブライブ!のこれからが更に楽しみに感じられます。

5thライブに向けて、私は大きく変わりない日常を過ごしていたのですが、そんな中ラブライブ!の見方という意味では大きな転換がありました。それは、ラブライブ!における歌詞・言葉の表現についてです。その感動的な言葉の数々を発信されているのが畑亜貴さんですが、それに対してどの様なattitudeで接していけば良いのかというのが5thライブ前の数か月、私の中で一つの大きな命題として浮上していました。

本記事は、表現者である畑亜貴さんにスポットライトをあて、畑さんによる言葉の表現の在り方を少しでもよりよく知りたいと願い、文章化させていただいたものになります。

 

 

Introduction

本題に入る前に、本記事はどのような方を対象としたものなのか、この記事が何を意図したものなのかに触れつつお話ししたいと思います。(本題と直接的に関係しないので、この章は読み飛ばし可です。)

ラブライブ!には色々な楽しみ方がありますが、その一つに歌詞の反芻があると思います。ラブライブ!楽曲の多くはストーリーとの繋がりやキャラクターとの関わり、メッセージ性を持ち、その歌詞をアレコレと考える事はラブライブ!における楽しみの一つであると言って過言ではないでしょう。その歌詞のほとんどを作詞されているのが言わずと知れた畑亜貴さんです。ラブライブ!の歌詞を考える事はラブライブ!作品における位置づけを考える事であると同時に、畑さんの作品表現として畑さんの視野を垣間見るという側面でも見る事ができるのではないかと思います。

さて、畑さんの作品として見る場合にとても重要な事があります。それは「畑亜貴という人物がどんな人なのかをしっかりと知る事」です。これは、前回記事でも触れました、原理・公理・定義とそこから導かれる結論との関係に起因します。

私の実体験で具体例をお話しします。学生時代、放射線量計を渡されて実験をするという課題を出された事があります。線量計を使うのは初めての事でしたが、放射線の線量を測る事の出来る機械。私を含め、多くの学生が金属や水による遮蔽効果や日光の有無などの、条件の違いによる線量の違いを調べる実験をしました。自然と言えば自然な考え方です。そんな中、ある学生が同一条件下や微妙な測り方の違いによる測定結果のバラツキを調べる実験をしました。その結果、同一条件でも測定結果にある程度バラツキがあり、軽微な測り方の違いでも大きく結果が異なるという事が分かりました。同じ条件であっても無視できないバラツキがあった、これは他の実験結果を評価する上でもとても重要な事で、実際には誰もが実験開始前に考える必要のある事でした。つまり私は「線量計はその時点での線量を良い精度で測定できる」という原理を信じて実験を開始してしまっていたのです。偽の命題からは真の命題は導けない、私達は「線量計を使った実験をする為に、線量計について知る」必要があったのです。

話を戻します。作品について考える場合にも、この線量計の話と同じ事が言えます。もし、畑さんの作品を「畑亜貴という人が表現されたもの」であると考え見る場合、「畑亜貴という人について知る」という事はとても重要な事です。

前置きが長くなりましたが、本記事はラブライブ!の歌詞について思慮を巡らせる方々、その歌詞の面白さの根源を探したい方々、畑さんの表現に魅了されもっと畑さんの事を知りたいと思われた方々を対象としたものになります。私自身、その答えを探し求めている最中ではありますが、現時点で思うところを以下で述べようと思います。

知名度のgap

畑さんについて知る中で驚いたのが、「知名度にgapがある」という事です。

まず大前提として、畑さんはかなりの有名人だと言って差し支えないでしょう。ラブライブ!作品に触れた事のある方であれば、大多数がどこかで畑さんのお名前は聞いた事があるでしょうし、表舞台で活躍されているキャストさん達と比較しても遜色のない知名度であると思います。ラブライブ!以外の作品にも多く携わっていらっしゃり、ラブライバーではないけれど畑さんの事を応援されている方も少なくないでしょう。

作詞に対する評価が高く多くの方に認知されている一方で、”畑亜貴”の名前を掲げた活動についてはその知名度に合わないgapが見られるように思います。

こちらは某日の畑さんの朝の挨拶になります。畑さんのフォロワー数は約9万人、そのうち♡の数は49(2019年6月10日現在)。畑さんの知名度を踏まえると驚くほど少数です。

こちらはライブリハーサルの呟き。やはり♡は159と決して多くありません。

最後にラジオ出演後の呟き。こちらは♡2020とやや多め。おそらくこのツイートは他の出演者さんがRTされた効果もあるでしょう。そう考えると、直接的に畑さんのTwitterから見て♡された方はいくら多く見積もっても1000代、もしくはそれ以下でしょう。やはり、畑さんレベルの知名人では決して大きくない値です。

勿論、TwitterのRT・♡の数がその内容を評価する上で大きな意味を持たない事は無論の事ではありますが、それでもこれだけフォロワー数と反応数に乖離があるのは、activeに畑さん自身を見ている方が少ない事の表れであると言っても過言ではないでしょう。

「作詞家としての畑亜貴」と「シンガーソングライターとしての畑亜貴」では見られ方に大きなgapがある。振り返って考えてみると当然の事ですが、ラブライブ!を通して畑さんを知り、その表現の美しさに魅了された私はその当たり前に気付くまでに時間を要したのでした。

貴女との出会い

私が畑さんを知ったきっかけは、言うまでもなくラブライブ!です。おそらくラブライブ!との出会いがなければ、そもそも畑さんの事を知る事はなかったでしょう。

今となっては、どの様にしてラブライブ!にハマっていったのかを覚えていませんが、初めて聞いた楽曲が「愛してるばんざーい!」であった事は今でも覚えています。先輩から勧められラブライブ!の事を知った私は瞬く間にラブライブ!に魅了されていきました。その先輩曰く、何故ハマったのかと聞かれた私は「歌詞が良かったから」と答えていたという事でした。その時こそ、私と畑さんとの出会いであり、畑さんの表現に敬意を抱いた瞬間だったのでしょう。

そうしてラブライブ!の世界にいると、意識しなくても畑さんの事を耳にする事になります。ラブライブ!楽曲は全て畑さんが作詞されている事。その一つ一つがラブライブ!のストーリーやコンセプトと合致したものになっている事。洒落た言語表現が多様されており、メロディーに乗せた時にとても魅力的になる事。畑さんの凄さを聞く機会が増え、私の中での”畑亜貴”という存在が神格化していくのを感じました。畑さん自身というより、畑さんの業績の凄さばかりに目がいっていたからこそ、そう思ったのでしょう。作詞家としての畑亜貴のみを見て神格化していた。今となって考えると、一面的にしか畑さんの事を見ていない上で一方的な高評価をする、大変失礼な事をしていたと反省しております。

私にとって、畑さんに対する見方が変わるきっかけとなったのは、鷲崎健さんとMay'nさんがパーソナリティーをされていた『電波諜報局』という番組に畑さんが出演された時の映像を見てからでした。その時、畑さんは『愛する人よ真実は誓わずにいよう』というアルバムをリリースされていた事もあり、シンガーソングライターとしての畑さんの歌に初めて触れました。そして、ラブライブ!の歌詞を聞いて抱いていた印象と大きなgapを感じ衝撃を受けました。どちらかというと暗い曲調で、歌詞もアイドルが歌うキラキラしたものからはかけ離れたものばかり。その時、私は無意識のうちに「ラブライブ!の歌詞は畑亜貴という光や希望に満ちた人が表現されたものだ」と思い込んでしまっていたという事に気付きました。同時に、同番組では畑さんへの質問コーナーもあり、そのドギマギとしたご回答を見て、私が一方的に抱いていた神格化像は音を立てて崩れると同時に、更なる尊敬の念を感じる事となったのでした。

それからしばらくして、私は畑さんのソロCDに触れるようになりました。ラブライブ!のとは正反対の曲ばかり、曲を聞いていく中で次第に疑問が生まれてきます。「何故、畑さんはこのような暗いテーマばかり扱うのだろう?畑さんはシンガーソングライターとしての活動で何を表現されたいのだろう?」

畑さんにとっての歌・歌詞による表現の根源が分からないでいるまま更にしばらくの時が経ち、某同人CD即売会で畑さんにお会いする機会がありました。実際に畑さんが目の前にいらっしゃるというだけでも大変興奮する出来事であった訳ですが、それだけでなく更なる衝撃を受けました。とても人間味があって優しい。ラブライブ!の歌詞にせよソロ楽曲にせよ、高尚で繊細な表現をされていて、どこか別世界・別次元の様に感じていた畑さんとの距離が思ったよりも近く、畑さんも同じ人間として色々な感情の中で生きていらっしゃるのだろうと考えさせられました。

そうして、畑亜貴としての活動を見知りする中で、畑さんにとっての”言葉による表現”は単なる表現手段ではなく、人生を通しての興味の対象であり趣味を通り越したライフワークなのだろうという事を感じる様になりました。畑さんにとっての”言葉”とは”表現”するとは何なのか、次章からはそれをテーマに述べていきたいと思います。

言語化するという事

畑さんについてお話しする中で欠かす事のできないキーワードとして「感情の言語化」があると思います。畑さんご自身も、今の職業が成り立っているのは感情の言語化に対して多大なる興味があるからだと公言されています。

この「言語化する」とはどういう事でしょうか。少なくとも、単純に、綺麗なものに対して「美しい」と言ったり、心揺さぶられるものに対して「感動した」と言う行為とは異なると思っています。畑さんはこの定義について明言されていませんが、畑さんのお話しを聞く中で感じた私の中での定義についてお話しします。

言語化する」事の根底には、しばしば言語論で唱えられる「言葉による存在の開始」と「言葉は抽象的であるからこそ言語として成立する」というテーマが関与しているのではないかと思います。まず、前者の「言葉による存在の開始」について具体例をもって説明します。

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さて、上に示したブレードは何色でしょうか。ラブライバーの方々であれば「サクラピンク」とお答えするでしょう。もしかしたら、ファッションやブランド物に詳しい方の中にも「サクラピンク」と回答される方がいらっしゃるかもしれません。しかし、そうではない他の多くの方はおそらく「ピンク」と答えるでしょう。

では「サクラピンク」が正解で、「ピンク」と答える人は間違っているのでしょうか。勿論そんな事はありません。包含関係としては「ピンク」という集合の部分集合として「サクラピンク」が存在している事になります。その為、これを「ピンク」と言う事は全く間違いではないのですが、ラブライバーの方であれば「サクラピンク」と言う方がメジャーでしょう。この一つの理由としては、もう一人「ピンク」がイメージカラーのメンバーがおり区別する為という事が挙げられると思いますが、もう1つ「サクラピンク」という言葉によって「サクラピンク」という色が存在し始めたという事が挙げられます。

そもそも「ピンク」はHSB色相環においてH300~330付近の色であり、単一の色を表している訳ではありません。その中には、マゼンダ・ライトコーラル・スイートピンク・サクラピンクなどと多数のピンクがあります。しかし、実際にはそれらの区別を知らなくても支障なく会話を行う事ができます。それは、「サクラピンクを知らない人にとってはサクラピンクは存在しない」からです。サクラピンクが存在しない世界で生きている訳だから、「この色はサクラピンクだ」と表現する必要がないのです。逆にサクラピンクを知っており認識している人の場合、サクラピンクが存在する世界で生きている事になるからこそ、最初の質問に「ピンク」ではなく「サクラピンク」と答える事が出来たのです。まさに「サクラピンク」という言葉によって「サクラピンク」という色が存在する事が出来ると言う事ができるでしょう。

この「言葉を定義する事によって存在を開始させる」という行為は、言語活動において重要である一方で、やり過ぎると逆に言語の円滑性を損ないます。先程述べたピンクの例を再度用います。そもそも「ピンク」には、マゼンダ、ライトコーラル、スイートピンク、サクラピンク・・・と色相だけでも多種あるばかりでなく、彩度や明るさも含めると無限の種類の「ピンク」が存在します。そんな無数にある「ピンク」の一つ一つに名前をつけていては、言語など成り立つ筈もありません。だからこそ、「ピンク」は幅を持った抽象的な概念として存在しています。固有名詞を除く名詞や形容詞の多くは「抽象的であるからこそ、その対象に存在を与える事が出来る」と言えます。

さて、ここまで言葉に元来内包された抽象性についてお話ししました。この抽象性は特に感情について考える上で大きな影響を持つと私は思っています。

例えば、「感動した!」と聞いた時、どの様に感じるでしょうか。少なくともネガティブな意味ではない、何となくダイブいい感じと多くの方は思うでしょう。しかし、その「感動した!」という言葉は、「芹沢光治良先生の作品を読んで戦後の動乱における心情の変化について考えさせられた」という場合に使う人もいれば、「今まで鉄棒が出来なかった我が子が初めて逆上がりができた」という時に使う人もいる、更には「一か月かけて計画した銀行強盗が手際よく成功し達成感に満ち溢れている」人も使うかもしれません。言うまでもなく、どれも全く違う意味の「感動した!」です。かなり仰々しい例を用いましたが、実際にはもっと微妙な差異であっても必ず意味に違いは生まれます。「感動した!」と発言した人の性格・背景・その時の心理・周囲の影響など無数の要因があるでしょう。当然の事ながら、一つ一つの感動に対してわざわざ新しい言葉を作っていると言語が成り立たなくなります。抽象性があるからこそ言語が成り立つ、その一方で、抽象的であるからこそ、その感情を正確に理解するのはとても難しい事であるのだと思います。

畑さんの言う「感情の言語化」とは、その”単一の感情”をより正確に理解しようとする営みの事を意味しているのではないかと私は思います。畑さんは「TaTa-LaLa」という曲の作詞について、この様にコメントされています。”辛い”という一つの言葉にも多種の”辛い”が内包されていて、それを区別させようとされている様に感じます。

私はこういう感情で”辛い”を表現しましたけども・・・私の辛いはこれです、でも皆の辛いはどう?

         畑亜貴の「弱り目に祟られろ!レディオ」Season3 001 より

「感情の言語化」について、言語論に基づく背景を述べましたが、まだ実感がわかないかもしれません。別の領域で「言語化」を実践されている方がいらっしゃるので、もうお一人例としてご紹介致します。それはグルメレポーターの彦摩呂さんです。

彦摩呂さんといえば、比喩表現を用いたグルメレポートが特徴的です。一つ一つの料理に対して異なる表現でレポートされており、その彦摩呂節の多様さには驚かされるばかりです。しかし、よく考えてみると、どのグルメレポートも「美味しい」という言葉と代替可能である事に気付きます。料理の美味しさを伝える為に「美味しい」と言う、当たり前の事です。ところが、先述の通り、実際には「美味しい」とは抽象的な表現であり、実際には無限の種類の「美味しい」が存在します。彦摩呂さんによって「言語化された美味しい」は、その時に彦摩呂さんにしか感じる事のできなかった「美味しい」だけを表現する、とても限定的な「美味しい」表現が可能となっているのでしょう。

そして、先程の言語論の話と同様に、そのグルメレポートを聞いた私達がその「美味しい」を理解する事が難しいという事も同じです。料理を何かに比喩されても、当然の事ながら私達はその味を正確に知る事はできません。しかし、少なくともその言語化表現によって「美味しい」という抽象的な集合がある程度絞られるため、私達にその美味しさを伝える効果があるのだと思います。

さて、言語化という行為によって言葉の意味は限定化される、しかしそれでも依然としてそれを正確に理解する事は困難であるという事を述べました。もし、作品で表現された「感情の言語化」をより理解しようとする為にはどうすれば良いのでしょうか。

言語化された感情を理解したい

 今までの話を整理すると、歌詞をはじめとした作品表現では「感情の言語化」が行われている、しかしその言語化表現は発信者にとっての限定的・単一的な意味を持つ表現であり、その他の第三者にとってはその一義性を解釈するのは非常に困難であるという事でした。さて、「言語化された感情」を更に言語化してより正確に理解するにはどの様にしたら良いのでしょうか。

つまるところ、消費者である我々が再度自分のものとして吸収できるものに”言語化”しなおすというところが最終目標なのではないかと思っています。畑さんのラジオでも、感情表現の読み取り方について話題になった事があります。

アニメソングの場合は作品が背景として存在するので歌詞の中で詳しく説明しなくても表そうとしている感情を理解しやすいのではないかと思います。一方オリジナルソングの場合はその曲の中でしか情報が無いので特定の状況を背景とした感情を表そうとするとストーリー性のある歌詞になるのではないかと思います。

(中略)

歌詞の中で詳しく状況を述べていない事から、他の人の感情ではなく聞いた人自身の感情を思い起こさせる形になっていると思います。

         畑亜貴の「弱り目に祟られろ!レディオ」Season3 002 より

 

これに対して畑さんは以下の様にお答えされています。

その人の背景が分からなければ想像するじゃない?

「歌詞の中で詳しく状況を述べていない事から、他の人の感情ではなく聞いた人自身の感情を思い起こさせる形になっている」っていう風に考える事が私は娯楽だと思ってるのね。少なからずの時間をこれに費やしてくれたなって思うと、そこでうちら繋がってるじゃんっていう気がするんだよね。そういう繋がりが私は好きなのかもしれない。

         畑亜貴の「弱り目に祟られろ!レディオ」Season3 002 より

畑さんのスタンスとして、畑さんだからこそ表現する事のできた感情を提示したいという立場もありつつ、それ以上に畑さんから作品を通して問題提起をし、それに対して我々聞き手側に自分自身だけの答えを探す旅に出て欲しいという想いを強く感じております。最終的な答えが人それぞれ違う、それは「畑亜貴の感情の言語化を読み取る」という意味では正確性に欠けるのかもしれないけど、むしろ同じ問題提起に対して向き合った時間こそが畑さんとの繋がりとして残るのだろうと思いました。

そうは言いつつ、”背景”をより詳しく知るための努力は必須でしょう。それすなわち、最初に述べた「畑亜貴という人物がどんな人なのかをしっかりと知る」という事です。私は昔、ラブライブ!の歌詞には畑亜貴という人が投影されていると思い込んでいました。畑さんの業績に目が向き、知らず知らずのうちに神格化していた、まさに線量計の例と同じ間違いをしていたと言えるでしょう。

 実際、「仕事で書いている歌詞は皆さんのロマンが優先される」と畑さん自身も仰っています。しかし、だからといってラブライブ!をはじめとした種々の音楽作品の歌詞が全く畑さんを反映していないかというとそれは全くの間違いだと思います。というのも、畑さんからは思っている事をオープンにしたい、感情をさらけ出したいという欲求が感じられるからです。

ラブライブ!においては、その歌詞は一貫してラブライブ!の世界観にのっとったものです。その時点で、曲にある程度の設計図は出来ているものの、細かいインテリアは畑さんの裁量であり、それこそ畑さんにしか出来ない「感情の言語化」がなされている部分になると思います。畑亜貴という人を知り、もっとその感情の深淵を垣間見たいものだと思っております。

貴女を想う

畑さんの事を知るほど、歌詞や曲の表現から感じられる繊細で高貴な印象とのgapを感じます。可愛いものが好きな事。インドアかと思いきや、旅が好きな事。夕方頃のなるとオフモードになる事。お酒が好きな事。人脈が広く、それも癖のある面白い方とよく繋がっている事。

そんな中、畑さんについてとても面白いと思ったのが、くだらない疑問が泉の様に湧いてくるという事です。日常生活でほとんどの人が気にしないような、それこそ気にしなくても全く生きていく上で支障のない様な疑問がとても多いのだと思いました。そして、これは表現者としての畑さんの強みなのではないかとも同時に思います。というのも、くだらない疑問が多いという事を言い換えると、たくさんの発見がありそれに対してご自分の答えを導こうとする習慣が日常レベルであるという事だからです。まさに、私達が作品を提示されて初めてしている様な思考活動を、日常の些細な出来事で行っているのだろうと思います。

No brand girls”という曲で「チャンスの前髪をはなさない」というフレーズがあります。日常生活においてチャンスというのは意外と多い、ただそれはあっという間に過ぎ去っていくためそれをチャンスだと実際に認識するのが難しく、人が”チャンス”と感じられる機会は実際には少ないのだと思います。畑さんのくだらない疑問の多さは、それが微細な事であれ大きな事であれ、新しいものに出会うチャンスに対して敏感な事の表れなのではないかと感じます。もしかしたら、畑さんの作品表現の面白さのルーツには、この様な日常の過ごし方もあるのかもしれませんね。

ここまで読んでくださった方へ

畑さん自身のスタンスとしては、今回扱った様な話を不特定多数には発信したくないと思っていらっしゃるのではないかと感じております。自分の興味のある事を、それに対して興味がある人だけに向けて発信したい、そんな場を望んでシンガーソングライターとして、表現者としての活動をされているのだろうと推察しております。その意味では、私が畑さんの活動を紹介するという行為は、もしかするとそれに逆行する行為なのかもしれません。

しかし、中には興味はある、けれど知る機会が無くてアクセスできないという方もいらっしゃるのではないかと思います。興味を持ってくださった方に向けて、畑さんの活動をいくつかご紹介したいと思います。

6月22日Lantis祭り2日目。数年ぶりの開催となったLantis祭りですが、今年はAqoursや虹ケ咲学園の皆さんも出演されるという事で、ラブライバーの方でも参加される方が少なくないと思います。そんな中、2日目公演となる6月22日には、畑さんもアーティストの1人として出演されます。作詞家としての畑さんではなく、シンガーソングライターとしての畑さんが表舞台で見られる機会、大変貴重で楽しみなイベントです。

もう一つご紹介したいのが、畑さんがメインパーソナリティーとしてされているラジオです。「弱り目に祟られろ!レディオ」というラジオが毎月13日・27日の2回配信されています。このラジオは、以前もされていたラジオが復活したもので、現在はSeason3として配信されています。作品表現のお話は勿論、畑さんの普段のお話も聞く事が出来て、大変面白い内容となっております。また、ゲストさんをお呼びしている回も多く、畑さんが様々な領域の方と人脈を持っていらっしゃるのが分かります。

・「弱り目に祟られろ!レディオ」Season3 (毎月13日・27日更新)

www.youtube.com

 ・「弱り目に祟られろ!レディオ」Season2 アーカイブ (全10回)

www.youtube.com

最後にもう1つご紹介するのが「猫舌Tea Time」 です。こちらは、noteというウェブサービスで配信されているもので、有料コンテンツになります。有料にする事で、本当に興味のある方にのみ聞いてもらえるようにされているようです。こちらは「弱り目に祟られろ!レディオ」と同様に言語化や普段抱えている疑問についてお話しされているだけでなく、なかなか表では話せないようなお話までされていて、大変面白いです。「弱り目に祟られろ!レディオ」を聞いて、更に興味を持ったという方は是非聞いてみてください。

・「弱り目に祟られろ!レディオ」アカウント (猫舌Tea Timeはこちらから購入可能)

note.mu

・note (スマートフォンアプリもあります。こちらはweb Ver. )

note.mu

おわりに

大変長くにわたる文章にお付き合いいただきましてありがとうございました。私はラブライブ!においてラブライブ!関係者のソロ活動も、ラブライブ!に内包された楽しみの一つだと思っているのですが、それはラブライブ!で知った事とソロ活動で知った事がお互いにフィードバックして、双方の活動がより楽しく感じられる様になるからです。今回はその一環として、畑亜貴さんについてお話しさせていただきました。

「弱り目に祟られろ!レディオ」略して「たたらじ」のリスナーさんが増え、畑さんと一緒に感情の言語化に触れてみたいと思った方がいらっしゃれば幸いでございます。